【新連載☆第8回】探せ!人生の味のごはん |料理で革命を起こす男

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

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ペルーという国を動かすことができる料理人がいる。 その名は、ガストン・アクリオ。 太田哲雄がペルーに渡った目的の一つは、 彼のもとで仕事をすることだった。 ようやく願いがかない、首都リマへと向かったのだが……?

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


ガストン・アクリオ―。

ペルーのカリスマ料理人であり、大統領選に出馬すれば当選間違いなしと言われる男。ペルーの食文化を世界に向けて発信してグルメたちを惹きつけ、ペルー国民に大きな希望を与えた。

彼のことは、アマゾンの住民たちもよく知っている。僕がアマゾンに行った時、市場でパンを焼いて売っている少年たちと出会った。「おいしい」と伝えると、はにかんだような笑顔を見せる。会話が弾み、「これから、どんなことがしたいの?」と聞くと、輝くような眼差しでこう言った。「いつかガストンに、僕たちが焼いたパンを食べてもらいたい」

アンデス地方でじゃがいもを育てている人たちは、珍しい品種のじゃがいもがあると、まずガストンに届けるのだと聞く。そのじゃがいもを見たガストンは、ペルー国内の有力シェフたちに知らせる。すると直ちにオーダーが入る。

漁師たちも同様だ。おいしい魚がたくさん獲れるのに、うまく市場にさばけない。そこにガストンが目を向けると、たちまち流通経路が出来上がる。

【地図】ペルー
【地図】ペルー

ペルーの豊かな食に、世界からの注目が集まっている。その一端を担っているのが彼だ。料理人であり、国家のPR担当の役割も果たす。「国を動かす力がある」と言われるのは、決して大げさではない。

経営するレストランは、高級店の「アストリッド・イ・ガストン」にとどまらない。セビーチェ専門店「ラ・マール」、串焼き専門店の「パンチータ」、ファストフードのチェーン店「パスクワーレ・エルマノス」など、その店舗網は、南米だけでなく、ヨーロッパやアメリカにも広がり、グループ全体で莫大な売り上げを記録。

さらに料理学校を経営し、自らを題材にした映画まで製作してしまう。その映画『料理人ガストン・アクリオ 美食を超えたおいしい革命』は日本でも上映されたから、ご存じの人もいるかもしれない。

名家出身のお坊っちゃま料理人

僕がペルーを目指したのは、ガストンの存在が大きい。彼の活動は、料理人という枠を超えている。そのスケール感は、僕がこれまでに出会ったどの料理人とも違う。

からだつきは大柄で、髪はモジャモジャ。コックコートを着ていないときは、たいていラフな格好をしている。親しみやすくて、頼りになりそうな風貌だ。

「アストリッド・イ・ガストン」の同期たちと。
「アストリッド・イ・ガストン」の同期たちと。

僕が興味をもつ料理人は、なぜかみな恰幅がいい。ガストンもしかり。ふっくらとしたからだで鍋をかきまぜている様子を想像すると、自然とおいしそうだと思ってしまうからだろうか。そういう僕もどちらかと言えば恰幅がいいほうだ。

ただし、彼は一日中調理場にこもっているタイプの料理人ではない。

政治家の父をもつ名家出身の彼は、親から弁護士になるよう勧められスペインに留学。しかし司法に興味が持てず、パリへ移り料理学校「ル・コルドン・ブルー (*注1)」に入学してしまう。卒業後、ドイツ人の妻を連れて帰国し、一九九四年にオープンしたのが「アストリッド・イ・ガストン」だ。

スペインへの留学もパリの「ル・コルドン・ブルー」への入学も、そして帰国後すぐに自分の店が持てたのも、背景には、肌の色が白い彼の恵まれた出自にある。その点では、ふつうのペルー人とは大きく異なるが、自身の持つ強みを最大限に生かしていると言えるだろう。 「アストリッド・イ・ガストン」では、ヨーロッパの一流レストランが出すような洗練された料理を出していた。食材はペルー産のものを使うから、そこに目新しさも加わる。世界を渡り歩くグルメたちにとっては、実に魅力的に映ったはずだ。

大勢のスタッフを抱え、自分が看板となって事業をどんどん大きくしていくのが彼の仕事の流儀だ。

僕がペルーで最初に彼の店を目指さなかったのは、前回にも書いたが、彼のレストランで出す料理が、土着的な料理ではないことが大きい。まずどこか別の店でベーシックな技法を身につけておかないと、ペルー料理とのいい関係は築けないだろうと感じたのだ。

採用は意外なほどスムーズ

カニェテにある「エル・ピロート」で五ヵ月間、ペルーの郷土料理にしっかりと触れた僕は、満を持してリマの「アストリッド・イ・ガストン」を目指した。二〇一四年一月のことだった。

新店のオープニングパーティの日に ガストン(左)と。
新店のオープニングパーティの日に ガストン(左)と。
『料理人ガストン・アクリオ美食を超えたおいしい革命』 提供:スタイルジャム ©2014 Chiwake Films, All Rights Reserved
『料理人ガストン・アクリオ美食を超えたおいしい革命』 提供:スタイルジャム ©2014 Chiwake Films, All Rights Reserved

その頃「アストリッド・イ・ガストン」は、前年に新設された「南米のベストレストラン50」で一位を獲得したばかり。お客さんも研修希望者も引きもきらない状況で、すんなり入ることは難しいと思っていた。

ペルーに来て三ヵ月が過ぎた頃に一度メールを送ったが返信がなく、伝手を探しあぐねていた時、運よくガストンの店のバーの責任者と知り合った。早速、面接を申し込むとすぐに会ってくれるという。場所は、リマのジェラート屋さんだ。テーブルに運ばれてきたジェラートには、クマの形をしたグミが載っかっている。大の男二人がカチンカチンに冷えたグミを嚙みながら、神妙な顔つきで話す。

「氷は丸く切れる?」

「はい」

たしか「エル・ブジ」でそれに近いこともやっていたし、できなくはないだろう。

「ラムはやっぱり○○のがいいよね。飲んだことある?」

「いえ、僕はまだ」

「ピスコ (*注2) っていうのは……」

さっきから酒の話ばかりだ。不審に思って聞いてみた。

「僕は、料理人志望なんですけど、バーのことも関係があるんですか?」

「おまえ、バーテンダー志望じゃないの?」

彼は、てっきり僕がバーテンダー志望だと思っていたらしい。僕が渡した履歴書を見れば、そんなはずがないことはわかるのだが。

「アストリッド・イ・ガストン」の旧店があった高級エリア・ミラフローレスのビーチ。
「アストリッド・イ・ガストン」の旧店があった高級エリア・ミラフローレスのビーチ。

店に帰って、料理人の採用担当者に履歴書を渡してくれる、ということで話がつき、カニェテに戻った。その直後に、見知らぬ人からメールが届いていることに気がついた。なんと以前、僕が送ったメールへの返信が、迷惑メールに分類されたままになっていたのだ。日付は、僕がメールを送った直後。そこには「五日後に店で会いましょう」と書かれていた。

期限はとっくに過ぎていたが、採用が厳しいわけではないことがわかり、僕は慌てて電話をかけて事情を話した。

「あなたのことは採用するって決めていたから、いつからでも来てもらっていいですよ。いつがいい?」と人事担当者。晴れて採用が決まった瞬間だ。

僕は、いよいよリマへと向かう。

現場のシェフは「エル・ブジ」出身者

「アストリッド・イ・ガストン」初日。珍しく調理場に、ガストンが顔を出した。ふだん彼は調理場にいないのだが、グループ全体で初の日本人研修生ということもあって、わざわざ僕に会いに来てくれたらしい。「いつか東京で店をやりたい」という野望もあるのだろう。

当時、調理場のトップは、ペルー人として初めて「エル・ブジ」で働いた経験をもつディエゴ。「アストリッド・イ・ガストン」が「南米のベストレストラン50」で第一位を獲得したのは彼の手腕によるものだ。ガストンは、彼に厚い信頼を寄せ、食材の仕入れから、メニューの構成、スタッフの採用にいたるまで店にまつわる、ほぼすべての権限を彼に委ねていた。

二番手のエミリオはメキシコ人。彼は、スペインの「ムガリッツ」での修業経験がある。その二人が調理場を引っ張っているから、出来上がってくる料理は当然「エル・ブジ」や「ムガリッツ」の流れを汲んだものになる。感じたままを正直に書くと、両店のレシピにある食材を、ペルー産のものに変えただけ、と思えるものも少なくなかった。

残念に思ったのは、料理の完成度がそれほど高くないこと。「エル・ブジ」式だから、一つのコースで皿数が二十くらい。かなりの作業量になるが、作業場の仕組みも人手も十分とは言えない。だから揚げ物が パリッとしていなかったり、サクッと軽い 歯ざわりのはずのメレンゲが、湿気を含んでいたりするのだ。疑問に感じつつも打つ手は見つからなかった。

最初に、僕が配属されたのは仕上げ部門。ところがこの店では、手の込んだ料理を作るから、料理の八割方を下処理が占める。そこで下処理部門への異動を希望した。セクションシェフは、アレックス。みんなから「ゴルド(デブ)」と呼ばれる愛嬌のある人で、ノリはまさにラテン系。

「みんな、ちゃんとやってるかい?」「いぇーい!」なんて明るく盛り上げてくれるのはいいが、だからと言って作業量が減るわけではない。

「エル・ブジ」のような寸分の隙もない作業工程とレベルの高いスタッフに支えられた調理場ならなんとかなるが、ここはどう見てもうまく回っているとは言い難かった。休日出勤や時間外労働も当たり前で、僕は大体いつも朝八時に調理場に入って、出るのが深夜の一時くらい。スタッフが労働基準監督署に駆け込み、実際にガストンが訴えられ、新聞記事にもなったが、状況がすぐに改善することはなかった。

もう一つ、僕の心を重くしたのが食材の廃棄率の問題だ。前にも書いたが、「エル・ブジ」風の料理は、廃棄率が高い。レストランとして営業する以上、ある程度は仕方がない。しかし、捨てられていく膨大な量の食材を見ていると、やるせなくなる。何かが間違っているのではないかという問いが、頭をもたげるのだ。

気詰まりな日々を、明るい気持ちにしてくれたのは、ペルー各地から調理場に届く食材たちだった。ヤシの新芽チョンタ、アマゾンの高級魚ピラルク、アマゾン産の小さな唐辛子……。僕は、新しい食材を見ると、それが育った風土に想いを馳せる。どんな土地で、どんな気候のもとで育ったのか。地元の人たちは、それをどうやって料理するのか。

しかし、同僚のペルー人たちに質問してもまともな答えはほとんど返ってこない。彼らもよく知らないのだ。この食材についてもっと知りたい。そんな想いは日増しに強くなっていた。

名店での修業は三ヵ月で終了

結局、ガストンの店にいたのは、わずか三ヵ月ほど。僕は研修生だから無給だったが、ひと月を過ぎた頃に、従業員としての契約を持ちかけられたこともあった。「給料を払うから、最短でも一年の契約にしないか」というわけだ。しかし僕は、調理場の状態にもレストランで出す料理にも納得していなかった。契約といっても大した給料がもらえるわけではないのに、一年間も縛られてしまうのは、どうなのか。

僕が入って一ヵ月半ほどした頃に、店は移転を決めた。決定したのはガストンだ。お客さんたちの満足度も下がっていたし、スタッフの士気も落ちていた。シェフも変わるとのことだったから、新店の様子次第では、契約してもいいかもしれないと思っていたが、期待していたほどの変化はなく、新店がオープンして一ヵ月半ほどで、僕は「アストリッド・イ・ガストン」での研修を終えた。

憧れていたガストンの店での経験は、必ずしも僕の期待に添うものではなかった。しかしこれは、ガストン個人に問題があったわけではない。たまたま僕が接した期間に、この店がうまくいっていなかったというだけのこと。同じ時期、ガストンが経営するほかの店の調理場では、スタッフたちがイキイキと働いていたのを僕はよく知っている。最近は、新店も順調だと聞く。

グループの運営には、企業経営やマーケティングなど多くのプロが参画している。もはや彼自身が「ブランド」だから、発言や服装なども、あるいはスタッフたちの意向が反映されているのかもしれない。それでもガストン・アクリオの動向からは目が離せない。僕にとっては今も尊敬する料理人の一人だ。

次は「ペルー料理の母」の店

さて、次はどうするか。このままペルーを離れるわけにはいかないだろう。まだこの国で学ぶべきことがあるはずだ。そんな想いから、僕が次に門を叩いたのは、リマの「エル・リンコン (*注3)」というレストラン。ある時、評判を聞いて食べに行ったら、とてもおいしかったのだ。派手さはないが、しみじみとおいしい、誠実に料理を作り続けてきた人の料理だった。

「エル・リンコン」は、テレーザ・イスキエルドという黒人女性が四十年くらい前に始めた店。テレーザは、すでに亡くなっていたが、かつてはガストンに料理を教えたこともあるという、「ペルー料理の母」的存在だ。

先に修業した「エル・ピロート」がドライブインからスタートしたことは書いたが、テレーザは、ドライブインを始める資金すらなく、家の前にテーブルを置いて自分で作ったお菓子を販売することから始めたという。それが屋台になり、彼女の料理のファンたちがお金を出しあって、ついに店を開くことができた。

彼女が作るのは、アフリカにルーツをもつ黒人系のペルー料理。今は娘のエレナが後を継いでいる。ラードを使ってカリッと揚げた豚肉、牛乳とバニラで炊いた米料理、豆の煮込みなど、どれも素朴でおいしい。

しかし、ペルーのレストランでは、いきなり東洋人の僕が「料理を教えてください」と言ってもすんなりとは行かない。イタリアやスペインでは、研修生というシステムが定着しているが、ペルーではそもそも社会全体に仕事が少ないから、ペルー人同士がそれを取り合っているような状況で、外国人を働かせることにも慎重にならざるをえない。僕のことをきちんと理解してもらうにはどうすればいいのか。

そう考えていた時、僕の友人のお母さんが、エレナと親友であることが判明。友人を通じて「僕がディナーを作りますから食べに来ませんか」とお誘いしたところ、快くやって来て料理も楽しんでくれた。それでようやくパイプがつながり、働き始めることができた。

書店に並ぶテレーザの本。
書店に並ぶテレーザの本。
友人家族のおかげでエレナ(前列左)と初対面。
友人家族のおかげでエレナ(前列左)と初対面。

この店では、毎週水曜日にペルーの伝統料理をビュッフェスタイルで提供していた。アヒデガジーナという老鶏を使ったシチュー、仔羊の煮込み、キャッサバ (*注4)を使った料理など三十種類もの料理が並ぶ。どれも地元の人たちの暮らしのなかで愛されてきた料理で、僕も楽しみにしていた。

鴨や鶏を焼くのは薪窯で、パリパリに焼けた皮と、ほのかな燻製香はこの窯ならでは。使う薪によって香りも違うから、ペルーのレストランのなかには、どの薪を使うかにこだわる店もある。

ペルー料理は、六つの国の文化の影響を受けている。先住民たちの文化、最初に移民としてやってきたスペイン人の文化、そしてアフリカ、イタリア、フランス、中国、日本。国土は、海に沿って南北に長く、雄大なアマゾンとアンデス山脈を擁する。だから食材が豊富で、各地でいろいろな料理と出会える。

ペルー滞在中、僕は国内をよく旅した。カニェテの近くにあるチンチャという街の料理には、黒人たちの文化が色濃く反映されている。今でも僕がよく作る豚バラ肉を使った「チチャロンサンド (*注5)」は、この街が発祥だ。

ペルー北部に位置するチクラヨの料理も印象に残った。ペルー第四の都市で、近郊には、古代遺跡も多く見つかっている。

ペルーを旅していると、この国はまだまだ可能性があると感じる。長距離バスに揺られていた時、何もない砂漠のような土地に、時折、小さな旗が立っているのを見かけた。これは、「ここに住んでいます」という印。ペルーでは、まだ所有者のない土地がたくさんある。そこに一定の年数住み続ければ、その人の土地になることが法律で定められているのだ。自分の土地になる、といっても電気も水道も通っていない。それでも住もうとする彼らの開拓者精神は、じつにたくましい。

「エル・リンコン」のアヒデガジーナ。
「エル・リンコン」のアヒデガジーナ。
同店の毎週水曜日のビュッフェ。
同店の毎週水曜日のビュッフェ。

「エル・リンコン」、そして次にリマで北部の料理を出す店にも入り、料理修業については、かなり満足していた。

あとペルーでやり残したことは何か。考えるまでもない。アマゾンだ。国土の六割を占めるというアマゾンについて、僕はまだ何も知らない。

次回は、ペルー人でもなかなか行くことのないアマゾンへの旅を案内しよう。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ ル・コルドン・ブルー パリで創立された百二十年の歴史を持つ料理と菓子の専門学校。一流講師陣によるていねいな指導で知られ、卒業生は世界で活躍している。日本には東京校と神戸校がある。

注❷ ピスコ ブドウ果汁を使ったペルーの蒸留酒。これをベースに柑橘類と泡立てた卵白を使ったカクテル「ピスコサワー」はペルーのレストランに欠かせない存在。

注❸ エル・リンコン 一九七八年にリマでわずか六テーブルのレストランとして創業。女主人のテレーザ・イスキエルドの作る料理は、たちまち評判に。政府の重要な外交シーンで料理を振る舞ったこともあり、テレーザは、ペルー政府から勲章を授与された。

注❹ キャッサバ 芋の一種で、細長い形をしている。デザートに使うタピオカやブラジルで人気のモチモチとしたパン「ポン・デ・ケージョ」の原料。

注❺ チチャロン 豚のバラ肉を低温でじっくり揚げたもの。ペルーでは、揚げ油にラードを用いるのが一般的。これをスライスしてサンドイッチにしたものが朝食メニューとして人気。

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