【新連載☆第7回】探せ!人生の味のごはん |野犬も歓迎!?ついにペルー初上陸

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

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待望のペルー行きがついに実現!しかし、太田哲雄を待ち受けていたのは、 砂ぼこりと荒々しい野犬たちだった。
そこへさらに襲いかかる腹痛と咳。ピンチを救ってくれたのは、 お尻にズブリとさす注射!?

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


9ヶ月に及ぶピッツァ修業を終え、ついに待望のペルーへ向かう日がやってきた。

南米大陸の太平洋岸にあるペルーは、ブラジルやチリ、エクアドルなどとの国境を五つも持つ国だ。南北に3,000キロ伸びる海岸線に沿うように標高六千メートル級のアンデスの山々が連なり、その背後に、緑におおわれたアマゾンが広がっている。

豊かな風土は、豊かな文化を育んだ。神秘的なナスカの地上絵や、インカ帝国の栄華をとどめる空中都市マチュピチュなど、世界から観光客を集める遺跡があちこちにある。

色とりどりの衣装を身につけた原住民たちの姿やフォルクローレ音楽に興味を持つ人も多いだろう。

そして、日系人も数多く暮らしている。1990年にアジア系として初めて大統領に選ばれ、10年間その地位にあったアルベルト・フジモリは、日系二世。今年の大統領選で激戦の末敗れたケイコ・フジモリは、彼の娘だ。

僕にとっての魅力は、なんといっても食材の豊富さにある。

地図: 南米のペルー
地図: 南米のペルー

アンデス生まれのじゃがいもだけでも、何百もの種類がう。とうもろこしや唐辛子、カカオやコーヒーなど南米大陸で生まれた野菜やフルーツは、今や世界中の食卓で欠かすことのできない存在だ。

調理場で食材と向き合うたびに、これはどんな土地で大きくなって、そこでどんなふうに料理されているのかと想いを巡らせる僕にとっては、どうしても足を運びたい土地だった。

そんな熱い想いを胸に抱いていたわりに、肝心なことが抜けていた。

ひとつは「ESTA (*注1)」。

イタリアからペルーへは直行便がなく、スペインのマドリッド、アメリカのマイアミ経由でペルーのリマへと向かう予定だったが、マドリッドの空港で「ESTAがないとアメリカには入国できません」といきなり足止めをくらった。

ESTAとは、電子渡航認証システムのことで、事前の申請が必要なのだが、僕は、「ESTAって何?」状態。

ヤバい!飛行機の出発時間は30分後に迫っている。あわあわとしていたら、「インターネットでも申請できるから」と教えられ、僕は空港中を走り回ってパソコンが使えるところを探した。申請ができるサイトを開き、猛スピードで必要項目を入力。なかなか切り替わらない画面がもどかしい。認証されなかったら、チケットは買い直しか。そんな算段を始めた頃、ようやく画面が切り替わり、ギリギリセーフで申請完了!まさに間一髪だった。

長距離バスで向かった先は?

そこからペルーの首都リマまではスイスイといった。空港到着は深夜。出迎えてくれたのは、僕が修業することになっていたレストラン「エル・ピロート (*注2)」のロミだ。

ペルーを目指す一番の目的は、ペルーのカリスマシェフ、ガストン・アクリオの店で働くことだったが、僕は、一直線でガストンの店を目指すことをあえてしなかった。スペインの「エル・ブジ」での教訓があったからだ。

世界最先端のレストランの調理場で経験を積んだ僕は、レシピ通りにあの料理を再現することはできるようになっても、それを自分のものにしたという実感が今ひとつ持てなかった。ベースにあるカタルーニャの伝統料理のことを知らないから、本質的な理解ができていないように感じるのだ。

最先端のガストンの店で働く前に、しっかりとペルーの伝統料理を学んでおこう。そう考えた僕が、伝手をたどってコンタクトを取ったのが「エル・ピロート」だった。

このレストランは、ローザという一人の女性が、街道を走るトラックの運転手たち向けに料理を出すドライブインとしてスタート。たちまち美味しいと評判になり、観光客も立ち寄るように。今はローザの息子と二人の娘が後を継ぎ、レストラン3店舗を経営するほどになっている。空港へ迎えに来てくれたロミは、ローザの孫娘にあたる。

「はじめまして。テツです」

「ようこそ。私はロミよ」

挨拶を交わすと、すぐにロミは歩き始める。たどりついたのは、バスターミナル。停まっているのは、塗装がはげて車体のあちこちが凹んでいるバス。

ロミはさっさと乗り込む。僕も慌ててスーツケースを運び入れ、シートに腰を下ろした。

バスが走り始めるとすぐにスヤスヤと眠ってしまったロミ。

せいぜい30分ほどで着くだろうと思っていたのだけど違うのかな。

15分、20分。バスは、街に近づくどころか、どんどん遠ざかっていく。

どうやら僕が向かっているのは、リマじゃないのかもしれない。

としたらどこ?

準備不足その2は、「行き先がわからない」。

僕は「エル・ピロート」は、なんとなくリマにあると思い込んでいた。カニェテ (*注3) という地名は聞いていたが、リマにある通りの名だろうと思ってよく調べもしなかったのだ。

道路は、あっという間に舗装されていないデコボコ道に。道を照らすのは、ブレーキランプのような赤い色の街灯。それがポツリ、ポツリと立っているだけで、他は何も見えない。街灯の下には野犬たちが群れをなし、あたりには、ただならぬ雰囲気が漂っている。

バスはひたすら暗闇を行く。1時間が過ぎ、2時間が過ぎてもロミは起きない。

バスがいきなりゲリラに襲撃されるってことはないよね?ないない。

にしても僕は、一体どこへ向かっているんだろう?不安はじわじわと広がり、一体自分がなぜここにいるのかもわからなくなってくる。

ようやくロミが起きた。

「降りましょう」

やっと目的地に着いたようだ。

安堵した僕の目の前に広がっていたのは、真っ暗な砂漠。遠くから響く野犬たちの遠吠え。

それが、はじめてのペルーだった。

「あそこ」

前を歩くロミが指さした場所には、何軒かの小さな家が並んでいる。どの家もジャンプすれば飛び乗れそうなほど屋根が低い。日本では建設現場で休憩所として使うようなプレハブが三つくらい連なって一軒の家になっていた。その一帯には、ものものしく有刺鉄線が張り巡らされている。

再び、緊張が走る。

入り口には大きなゲートがあって、ロミが門番にIDカードを見せると、重い鉄の扉がギーッと大きな音を立てて開いた。

日本では、厳重なセキュリティが敷かれていると聞くと、どんなお屋敷かと思うけれど、ペルーでは、普通に暮らすためにこうした厳戒態勢が必要なようだ。

僕は、ロミが一人息子と暮らしているところに居候させてもらうことになっていた。

荷を解き、布団に入る頃には緊張も解けた。その頃には、カニェテは、ペルーの地方にある町だということをうっすらと理解していた。遠くからは、相変わらず野犬たちの鳴く声がする。

長い1日はこうして幕を下ろした。

ペルーの伝統料理を学ぶ

翌朝、僕は騒々しいクラクションの音で目がさめた。表の通りを何台ものモトタクシーが走りぬけていく。

モトタクシーは、バイクの後ろに二人ほど乗れるようなホロ付きの座席を取り付けた乗り物で、ペルーでは日常的な公共交通機関だ。舗装されていない道路は、砂ぼこりと排ガスにまみれていた。

店の責任者は、ロミの父カルロ。僕は、彼に「ペルー料理を学びたい」と伝えてあった。家と食事だけ用意してもらえれば、給料はいらない。カルロは、そんな僕の希望に、誠実に答えてくれた。

店には9時ごろに入って、一時間働いたら朝ごはん。それからまた仕事をして、次は昼ごはん。13時を過ぎた頃からお客さんがどんどん入り始める。営業時間は17時までで、夜の営業は、なかった。

アヒ・アマリージョとそのペースト。
アヒ・アマリージョとそのペースト。
人気メニューの一つ、カウサ。
人気メニューの一つ、カウサ。

僕は、冷菜部門担当のマリアという女性について、唐辛子の掃除の仕方から習った。「エル・ピロート」では、鮮やかな黄色やオレンジ色をしたアヒ・アマリージョと、小粒のアヒ・リモ、それから肉厚のロコトという三種類の唐辛子を使っていた。「カウサ」という黄色いペルー風マッシュポテトに使うのは、アヒ・アマリージョのペースト。このペーストももちろん自分たちで作る。

魚は毎日漁師が売りにきた。落語の「芝浜 (*注4)」の世界だ。仕入れた魚や貝の掃除は、僕の担当だった。

人気料理は、生の魚をマリネした「セビーチェ」。ペルー人の大好物で、専門店もあるほど。

ここに来るまで、僕はマリネ液には、ライムを使うと思っていたのだが、実際に使っているのは、ライムではなくペルーのレモン。ライムとも日本のレモンとも違う爽快な香りがした。

マリネする時に、隠し味として加えるのは「タイガーミルク」だ。魚のアラから取った出汁に、にんにくや玉ねぎ、しょうがなどを加えて、ミキサーで回したもの。

これが味の決め手になるから、どこのレストランも力を注ぐ。目安はだいたい一リットルの水に五百グラムの魚介類。なかなか高級な調味料だ。それを毎朝作るというのだから、ペルー人がいかにこれを大切に思っているかがよくわかる。

左端は、店の最古参のおばさん。彼女が作る料理が一番美味しい。
左端は、店の最古参のおばさん。彼女が作る料理が一番美味しい。
エル・ピロートにはサッカーチームがある。ローザ(中央)と、彼女の二人の娘。
エル・ピロートにはサッカーチームがある。ローザ(中央)と、彼女の二人の娘。

エル・ピロートにはサッカーチームがある。ローザ(中央)と、彼女の二人の娘。

こうして僕は毎日、ペルーで愛されている伝統料理を、ペルー人とともに作り、食べた。そのたびに、ペルーとの距離は縮まっていった。

喉とお腹はいきなり絶不調

空き時間は結構あった。日本のレストランでは、「やることがない時も、自分にできる仕事を探せ」と指導されるけれど、ここではそんな堅苦しいことは言われない。僕は新聞を読みながら、わからない単語を教えてもらったり、料理についてマリアに質問したりして過ごしていた。

ある従業員は、借金を返すため夜にタクシー運転手の仕事を掛け持ちしていて、昼間はいつも眠そうにしていた。トイレに行って1時間くらい帰ってこないこともある。それでもみんな「疲れているんだろう」と見守っている。そんな穏やかな空気が心地よかった。

しかし、体は悲鳴を上げていた。

まずはお腹。到着して数ヵ月間くらいは腹を下さない日のほうが少なかった。生野菜は食べないようにしていたけれど、一向に治らない。特定の食材にあたったというよりも、ペルーという国に胃腸を慣らすための時間が必要だったのだろう。

次に、気管支がやられた。咳が止まらなくなってしまったのだ。ロミたちがしきりに病院を勧めてくれて、診察に訪れたところ、病名は、気管支喘息。医師から渡されたのは、白い液体の入ったアンプルと注射器だった。

「エル・ブジ」では、料理に注射器を使っていたけれど、自分の体に打ったことはない。そんな超初心者の僕にしてくれた、医師の説明は、「腕じゃなくて、お尻に打つんだよ」。

でも、どうやって?

すごすごとうちに戻り、早速、注射器を持った手を後ろに回してみる。いやムリ。

鏡の前に立ってみる。やっぱりムリ。

自分で打つことを諦めた僕は、広場に行って、そこにいる人たちに尋ねることにした。

「これ、病院でもらったんだけど、どうやって打てばいいの?」

「角を曲がったところに白い家があるから、そこのおばさんに頼めばやってくれるよ」

一人の女性がそう教えてくれた。

どんなに困ったことがあっても、この国では必ず誰かが助けてくれる。僕はすぐにおばさんの家へと向かった。

白い家の扉を叩く。反応はない。

今度は、もっと乱暴に叩いてみる。やっぱり出てこない。

諦めて帰ろうとした時に奥から出てきたのは、ネグリジェ姿で、頭にシャワーキャップをかぶったおばさんだった。

一瞬、互いにフリーズした。

僕もぎょっとしたけれど、おばさんだって、いきなり自分ちに、注射器を持った東洋人の男が来たら驚くだろう。

事情を話すと、ぶっきらぼうに「入んな」とひと言。

茹でたじゃがいもをのせたお皿や調味料が所狭しと並ぶテーブルに手をつき、僕はお尻を出す。いきなり打とうとする彼女に、僕は小声で訴えた。

「消毒……」

「ああ」と面倒くさそうに僕のお尻を拭き、注射器をお尻に当てる。中の白い液体は、意外とねばっこくて、なかなか体の中に入っていかない。時間をかけようやく一本打ち終わって、本日分終了。心なしか、咳が治まった気がした。

懲りない僕は、翌日も注射器を持って白い家を訪れた。

3日目は、かねてからリマ行きを計画していた。注射は効いているみたいだから続けたい。相談したら、「リマなら薬局でやってくれるから」と言う。

言われた通りリマで薬局に入りアンプルと注射器を見せたら、すぐに打ってくれた。

1週間くらいすると、気管支喘息は、すっかり回復。以来、咳に悩まされたことはない。

市場にも危険がいっぱい!?

ペルー料理の基礎を学ぼうと思っていた僕は、市場へもよく足を運んだ。しかしそこは地元民にとっても危険な場所。公設ではなく無認可の市場で、警察の権力が及ばない。

実際カルロの奥さんもここで買い物をしようと財布を取り出した瞬間に、誰かに棒で叩かれてうずくまり、財布を奪われたことがあったらしい。犯人はもちろん捕まらない。彼らにとっては、それが日常の光景なのだ。

市場の前に、かぼちゃを積んだトラックでやってきて、売りさばくおじさんがいた。ある時見なくなったから、顔見知りに聞いた。

「かぼちゃおじさん、最近見ないね」 「あいつ、殺されちゃったよ」 「なんで?」 「儲けすぎて、恨みでもかったんじゃないの?」

あっけらかんとしたものだった。

警察が動いている様子もなかったが、そもそも通報すらされなかったのかもしれない。

ペルーでは、警察官はあまり頼りにならない。給料は安く、真面目に仕事をしない人も多いのだ。職務質問してくるのは、ほとんどの場合、事件の捜査のためではなく、賄賂の要求と思って間違いない。

すぐにポケットに小銭をねじ込まないと、解放してくれないのだ。ひどい場合は、乗っていた車のシートに、あらかじめ用意していた麻薬を投げ込み、「これはなんだ?」とやる。そうなる前にとっとと支払った方が得策だ。

これはカニェテだけではなく、首都のリマでも同様だ。

僕は、これまでに何度も環境を変えてきた。スペインやイタリアは、何が起きてもたいてい予測がつく。

ところがペルーは、まるで違っていた。

根っこにあるのは、貧困だ。家の造りも街並みも、商売のあり方も、すべてがこれまで体験してきたものと、明らかに違う。

かつては、極左暴力組織「センデロ・ルミノソ (*注5)」が激しく破壊行為を繰り返したこともあった。今は沈静化したが、貧困とその先にある暴力は、日常との距離が近い。

物価は驚くほど安いから、生活にかかる費用も少ないが、日本の大卒者の初任給は二十万円くらいなのに、ペルーは四万円弱と聞くと複雑な想いが交錯する。

それでも楽しく過ごせたのは、彼らの温かさが心地よかったから。

カニェテの市場。
カニェテの市場。

彼らはいつだってポジティブで、ちっともギスギスしていない。いつも誰にでも親切で、だから、付き合いやすい。

次回は、いよいよ念願だったガストン・アクリオの店へ。大統領選に出馬すれば当選間違いなしとも言われる社会派シェフの仕事ぶりを、間近でみるまたとないチャンスだ。彼は、その後の僕の料理人人生にも大きく影響を与えることになる。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ ESTA 2009年に義務化された電子渡航認証システム。米国への渡航に際し、ビザが免除される国のパスポートを持つ者は、14ドルを支払い、認証を受けなくてはならない。なるべく渡航数日前までには完了させておきたい。

注❷ エル・ピロート 街道を走るトラック運転手相手のドライブインとして数10年前にオープン。おばあちゃんの作るペルーの伝統料理が美味しいと評判になり、現在はペルーのグルメ誌で必ず紹介される有名店に。

注❸ カニェテ 首都リマから南に150Km下ったところにある町で、観光客がバスでナスカの地上絵を訪れる際の通り道となっている。かつては日系移民も多く暮らし、ペルーで初めて寺ができた町でもある。

注❹ 芝浜 古典落語の演目のひとつで、魚の行商をしている男が主人公。男はある朝、大金の入った財布を拾い大喜び。しかしいつの間にか財布は消えていた。女房はそんな財布は見たこともないというが……。夫婦の機微を描いた人情噺。

注❺ センデロ・ルミノソ 1970年代に台頭した極左暴力組織。正式名称はペルー共産党。国内各地でテロ行為を繰り返していたが、90年代に入り幹部が次々と逮捕され、次第に活動は沈静化した。

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