【新連載☆第6回】探せ!人生の味のごはん |ピッツァ修業は〝北北西〟に進路を取れ

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

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〝プラダを着た悪魔〟のしごきに耐える太田哲雄に忍び寄る解雇の影。
話し合いを重ねた結果、ミラノ版『プラダを着た悪魔』は静かに幕を閉じた。
次に目指すは、ピッツァ職人!? ナポリの北北西にある、小さな村でのピッツァ修業とは?

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


〝プラダを着た悪魔〟に仕える僕の毎日は、慌しく過ぎていった。市場を駆け回り、人数がコロコロ変わる会の準備に追われるだけではない。マダムの会社も家庭も、大小さまざまなトラブルが日々発生する。クライアントとの打ち合わせが終わると決まって、マダムと息子のアンドレアは険悪なムードに。アンドレアは、ビジネスでも人に頭を下げるのが苦手なのだ。

マダムの秘書から雑用を頼まれることもあった。駐車違反の反則金の支払いがその一つ。イタリアでは、違反切符を切られると、郵便局で支払いをする。お金を渡すから行ってきてくれないか、というわけだ。金額がまた桁違いで、なんと1,000ユーロ(約12万円)を越すものもあった。これはアンドレアの妻の仕業。浪費家の彼女は、大好きなショッピングにでかけては車を停めっぱなしにして、性懲りもなく毎回のように切符を切られているらしい。

マダムの娘のベアトリーチェは、使用人に対する態度がひどい。あれを買ってこい、これをやっとけと理不尽な要求ばかりする。

【地図】イタリア
【地図】イタリア

もっと、心穏やかに過ごしたい。

僕は、家でクラシック音楽でも聴きながらジャムをコトコト煮込んだりするのが好きなのだ。しかし、そんな時間は最後まで訪れそうになかった。

忍び寄る解雇の影

不穏な空気を感じたのは、働き始めて一年が経過した頃だった。ある日マダムの会社の役員から会議室に呼ばれた。

「最近どう?」

「どうって、マダムにやられっぱなしですよ。知ってるでしょ?」

「ところでテツ、もしかすると私たち、この先あなたを抱えきれなくなるかもしれないわ。すぐにではないけれど。マダムから何か聞いてない?」

何も聞いていない。だが、これまで、いともたやすく人がクビを切られるところを見てきた僕はピンときた。解雇だ。最初からはっきりそう言わないのが彼らのやり方だ。

「マダムから、テツは奥さんと一緒に日本に帰りたがってるって聞いたんだけど」

そんなわけない。妻はミラノで大学に通い始めたばかりだ。僕は、急いで弁護士のところに相談に行った。

「雇用契約はどうなっていますか?」

言われて初めて、僕自身も正式な雇用契約を結んでいないことに気が付いた。毎月の給与も現金払い。弁護士からは、次から役員に呼ばれた時は、ボイスレコーダーを携帯して会話をきちんと録音しておくようアドバイスを受ける。

この弁護士を紹介してくれたのは、イタリア人の友人で、アンドレアの元カノのマヌ。企業相手に負けなしの凄腕弁護士だ。

再び会議室に呼ばれた時、僕は「これまで与えられた仕事はしっかりこなしてきた」と主張し、「このやり方はフェアではないと思う」と伝えた。

簡単には引かない姿勢を示したことで、交渉の余地が生まれた。相手も何かを察し
たようだ。何度かの面談の時も、僕は声を荒らげず終始堂々としていた。

そもそも雇われている側の権利は法律で守られている。それを知らずに泣き寝入りしてしまう人も多いが、僕がここにきた頃、ちょうど入れ替わるように解雇されたペルー人の家政婦のおばさんは、労働局に駆け込んで不当な解雇だと訴え、マダムと夫のマリオはかなりの補償金を支払ったことを知っていた。

僕は、最終的に月給の3、4ヵ月分にあたる金額を退職金として受け取ることで合意し、正式に退職が決まった。あとで聞いたところによると、僕の後任は、僕がもらっていた給料よりもかなり少ない額で雇ったらしい。マダムの会社の経営も順調とは言えなかったし、コスト削減の一環だったのかもしれない。

『プラダを着た悪魔』が幕を閉じる

次のことはまだ決めていなかった。「エル・ブジ」を去った時ほどお金に困っているわけではないし、日本に帰ってゆっくり考えればいい。

マダムは結局、僕との間で退職の話は一切しなかった。最終日に僕にかけた言葉は、「そういえば、テツは日本に帰るんだってね」。ツッコミどころ満載だったが、僕は笑うしかなかった。

邸宅を去り、自分の家で荷造りをしていたら、マダムの娘ベアトリーチェから電話がかかってきた。

「私の昼ごはんは?」

いや、だからもう辞めたんだって。そう言いたかったけれど、言い返すのも面倒で邸宅に戻り、手早くランチを用意した。

2012年7月、ミラノ版『プラダを着た悪魔』は、こうして幕を閉じた。

過酷な日々ではあったが、振り返れば、上流家庭で、生粋のイタリア人相手にイタリア料理を作るのは、貴重な体験だった。

自分の母国以外の料理を作る料理人は、時に「自分が作る料理は、果たして本物なのか」と不安を覚えることがある。いわゆる料理のアイデンティティ問題だが、この経験のおかげで、僕は今まで以上にぶれずにイタリア料理を作れるようになったと思う。

「ピザも作れないの?」

南イタリアのアマルフィで妻と一緒にのんびりと夏のバカンスを楽しみ、僕は日本に帰国した。

さて、次の仕事はどうしようか。ミラノにいる間に、南米への興味はブラジルからペルーに移っていた。出会う南米人たちが口々に「いま面白いのはペルーだ」と言うのだ。僕が出会うペルー人たちも面白い人が多い。

ペルーのレストラン事情について調べていると一人の男に行き当たった。男の名は、ガストン・アクリオ。彼は「料理の力で、国を動かす」と言われるほどパワフルな料理人で、国内の生産者とも積極的に交流していた。

彼の店「アストリッド・イ・ガストン (*注1)」は、「世界のベストレストラン50」にもランクインしたばかりで勢いがある。ペルー出身の料理人に相談すると、「このところ希望者が増えているらしいから、すぐにはムリかもね」という。知り合いの中に、直接この店を知る人もいない。さて、どうするか。手を出しあぐねている状態だった。

そんな時、長野の実家で家族から「イタリアにいたんだから、ピザを作ってよ」とリクエストされた。

「ピザ?」思わず聞き返した。

「だって、イタリアといえばピザでしょ?」

「だけど僕はピザ職人じゃないんだよ」

仮にも星付きレストランで修業をしてきたのだ。イタリアでピッツァは、高級レストランで出す料理ではない。そんなことはお構いなしに家族は追い打ちをかけてくる。

「そんなに長くイタリアにいてピザも作れないの?」

ピッツァか。よく知られていることだが、料理の中で「粉物」は、原価率が低い。つまり売れれば手っ取り早く儲かる。うどん、ラーメン、パンケーキ、パスタ、そしてピッツァ、どれもそうだ。お客さんにとっても気軽に食べられる料理で人気が高い。

悪くないかも。将来、自分の店を持つ時にも選択肢の幅が広がりそうだ。3ヵ月くらいイタリアに行って、ピッツァ修業をしてみようか。

僕は早速リサーチを開始。本場ナポリのいくつかの店に目星をつけて、コンタクトを取った。ところが全くらちがあかない。昨日話したことが次の日には忘れられていて、また一から説明させられることもざら。しかも彼らは「研修費」を要求する。

「生地を扱わせてやるし、窯の前にも立たせてやるから、1ヵ月1,000ユーロ払え」と言うが、僕はイタリア語も話せるし、料理の経験もある。そこまで高額な研修費を支払う必要はないだろう。地元のピッツァ協会の認定証がもらえなくてもいい。何度そう説明しても彼らは「日本人は、みんな支払う」の一点張り。すでにそういう仕組みが出来上がっているようだった。

〝北北西〟に進路を取れ

僕は考えた。ナポリには確かにピッツァの名店が多い。しかしすべての店が素晴らしいわけではない。イタリアにいる間に何度かナポリを訪れたが、ピッツァを食べた後、消化不良を起こすことがよくあった。ナポリのピッツァは、大きな窯の中で400から450度の底面のベストポジションを見極めてピッツァを入れる。焼き上がりまでわずか1分ほど。しっかりと生地に火が通っていないことがあるのかもしれない。

ピッツァ生地の成型。全4種を常時作る、ピッツァ屋としては異例の職場。
ピッツァ生地の成型。全4種を常時作る、ピッツァ屋としては異例の職場。
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チャバタ生地の仕込み。

ピッツァ生地の発酵や、成型、焼成についてきちんと理論的に学びたいと考えた僕は、イタリアの星付きレストランで働いている友人に相談をした。

すると、「北にすごいピッツァ職人がいるんだよ。これまで見たこともないようなピッツァを焼くんだ」と教えてくれた。その職人の名前は、レナート・ボスコ。どんなピッツァを作るんだろう。調べてみると、彼の店「サポーレ」は、イタリアの有名なグルメガイド「ガンベロロッソ」ピッツァ部門の初代チャンピオンだった。

その頃、北イタリアでは革新的なピッツァを出すピッツァ職人たちに注目が集まっていた。生地を低温でじっくりと発酵させたり、石臼挽きの小麦を使ったり、トッピングにこだわったりするなど、どんどん新しいスタイルを生み出している。その筆頭が、レナート・ボスコだ。

「彼のところで働きたい」と思った僕は早速、履歴書を送った。レナートはすぐに興味を示し、僕はさらに、これまで自分がやってきたこと、将来のヴィジョン、レナートのところでどんなことを学びたいか、どんな点で彼の店に貢献できるかを伝えた。

ナポリの時とは違って、面白いほどスムーズに話が進む。もちろん研修費なんて必要ない。「今、会計士と話をしているからしばらく待ってほしい」と連絡があり、程なくして契約内容が決まった。期間は半年で、希望通りの給料と家を用意してくれるという。

「僕はピッツァ職人で、テツは料理人。互いの力を合わせれば新しいピッツァが作れるはずだ」とレナート。彼が僕を必要としていることが嬉しかった。

「サポーレ」は、イタリアのヴェネト州 (*注2) 第二の都市ヴェローナからさらに車で15分ほどの小さな村にある。この店を訪れるのは、イタリア全土からはるばるやってくる客たち。海外からの客も少なくない。日本では、有名レストランは東京に集中しているが、イタリアは、そうではない。客たちは、いい店があると聞けば、こんな小さな村にもわざわざ長時間車を走らせてやってくる。

生ハムとブラータチーズのトッピング。
生ハムとブラータチーズのトッピング。
フォカッチャのような厚みのあるピッツァ。焼き目はパリッとしてとても軽い。
フォカッチャのような厚みのあるピッツァ。焼き目はパリッとしてとても軽い。
僕が開発した蒸すピッツァ。料理学会で大好評だった。
僕が開発した蒸すピッツァ。料理学会で大好評だった。

イタリア人にこうした習慣が根付いたのは「スローフード協会 (*注3)」の功績も大きい。伝統的な食文化を守ろうと立ち上がった彼らは、自分たちが定めた基準を満たすレストランを認定し、支えた。フランスのグルメガイド「ミシュラン」を発行しているのがタイヤメーカーなのは有名な話だが、両国には、豊かなレストラン文化を育む土壌がある。

ピッツァ職人は発酵学ハカセ

レナートは、修業経験はなく若い頃からピッツァ一筋。ずっと独学でやってきたという。「エル・ブジ」なんて聞いたことがないと言うが、発酵については徹底的に研究していた。粉や生地の扱い方を工夫してはピッツァの可能性を模索し、その成果を毎年ミラノの料理学会で発表。高い評価を得ていた。

彼のピッツァは、一枚20ユーロ以上とナポリのピッツァの何倍もするが、いい素材を使い、時間をかけて作っているから当然、という理解が客たちにあるのは、実に幸せなことだ。彼が店で使っていたトマトの瓶詰めは、今、日本で僕も取り寄せて使っている。よく売られているトマトの水煮缶よりも、断然トマトの風味がよく、水で薄められてもいない良品なのだ。

ピッツァ修業の朝は早い。スタートはなんと早朝五時。生地の仕込みをしてランチの客を迎え、午後三時くらいまで通しで働き、三時間休憩して、今度は夜の営業。それが深夜の十二時まで。毎日ヘロヘロで家に戻っていた。

レナートが用意してくれた家は、かなり奇抜だった。たいていの人は、そこに「家」があると気付かない。友人が遊びに来た時も「結構いい家だね。どっち?」と聞くから、「いや、その真ん中だよ」。

ん?よく見るとそこに家らしきものがある。2軒の家の間のかろうじて人が暮らせる程度の隙間に無理やり作ったのが僕の家だった。

レナートのところには外国人スタッフも大勢いたが、家まで用意してもらったのは僕だけ。そんな待遇で外国人を雇うのは彼にとっても挑戦だったのだろう。

ヴェネト州は、僕がこれまで行った中では最もお金が回っている印象だ。ミラノよりも断然、街並みが整備されている。観光にも力を注ぎ、しっかりと投資を回収している。レナートの店もそういう意味では、ケチケチしていなかった。家は例外だったけれど!

新作ピッツァを次々と発表

「サポーレ」は、ピッツァをコースで出していた。薄いピッツァ、フォカッチャのような厚みのあるピッツァなど、発酵の仕方や粉の種類、トッピングが異なるピッツァを順に出していく。スタンダードなピッツァは、生地にトッピングをしてから焼くが、ここでは、焼き上げた生地に、ブラータや水牛のモッツァレラ、生ハムを載せて出すメニューも人気で、生ハムは一週間に、原木(豚の足)を3本、4本と使っていた。生地にも変化があるので、コース仕立てにしても飽きがこない。

レナートに僕が提案したのは、蒸すピッツァや茹でるピッツァ。ピッツァは窯に入れて焼くという概念をひっくり返したのだ。そんな発想ができたのは、僕が料理人だったからだと思う。

蒸すピッツァは、中華まんみたいにふっくらと軽い感じに仕上がる。このふわっとした食感は、イタリア人にとっては初体験で、かなり衝撃的だったようだ。その中には、ブラータというフレッシュチーズ。モッツァレラよりもさらにミルキーで、もちもちとした上質なチーズだ。

茹でるピッツァは、ベーグルのように表面がつるんとした仕上がりで、焼いた時よりも格段に粉の風味が生きている。

これらのピッツァは、レナートと一緒にミラノの料理学会で発表し、それなりの評価を得た。

毎年ミラノで開催される料理学会「イデンティタ・ゴローゼ」で。
毎年ミラノで開催される料理学会「イデンティタ・ゴローゼ」で。

レナートは、テイクアウトの気軽なピッツァの店も持っていた。それがあるから、最先端の店ができる。なかなかのビジネスマンだけど、人使いはうまくない。気にくわないとすぐに解雇しようとするから、何度となくもめていたし、彼の店ではイタリア人は生地を扱う仕事を任せてもらえなかった。以前、片腕として働いていたスタッフの裏切りにあったからだ。そのスタッフは退職後に、レナートの店のすぐ近くで、レナートの店よりも安い価格でピッツァを出す店を始めた。レナートはかなりショックを受けたらしく、以来、大事な仕事をイタリア人に任せなくなった。そんな風に、ちょっと独善的なところもあるが、僕はなんとかうまくやっていた。

右から2人目がレナート。地元の仲間とのコラボディナーでの一枚。
右から2人目がレナート。地元の仲間とのコラボディナーでの一枚。
「 サポーレ」の店内。
「 サポーレ」の店内。

6ヵ月だった店との契約は、レナートの希望で9ヵ月に延長。レナートは、ずっと一緒に店をやっていきたいと言ってくれたが、もう、南米行きを引き延ばすわけにはいかなかった。ただし僕は、その後もレナートとともにミラノの料理学会に登壇している。きっとレナートの中では、このプロジェクトは今も継続中だ。

そして僕は、ピッツァ修業を終え、いよいよ待望の南米へと向かう。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ アストリッド・イ・ガストン ペルーの首都リマにあるレストラン。カリスマシェフ、ガストン・アクリオが経営。「世界のベストレストラン50」には2011年に初入賞。以降毎年ランクインしている。

注❷ ヴェネト州 アドリア海とアルプス連峰に挟まれたイタリア北部の州で州都はヴェネツィア。ヴェローナはヴェネツィアに次ぐ第二の都市で、「ロミオとジュリエット」の舞台としても知られる。D.O.C. ワイン(イタリアで国の認定条件を満たしたワイン)のヴァルポリチェッラの産地がある。

注❸ スローフード協会 1986年にイタリアのピエモンテ州で始まったスローフード運動を提唱した団体。伝統的な食文化を守るためにはどうすべきかを真剣に考え、そのためのサスティナブルなシステムを提案、実践している。農畜産物や加工品、食品やワインなどの調査を行い、基準を満たすものを認定品に指定。レストランについても同様に認定を行う。

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