【新連載☆第4回】探せ!人生の味のごはん |〝プルポマン〟現る!

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

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「エル・ブジ」で研修生として働き始めた太田哲雄を悩ませたのは空腹だった。救世主は、〝プルポマン〟? 世界中から集まった個性的な研修生たちとの日々、そして世界のトップレストランの調理場で、心に湧き上がってきた違和感とは?

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


「エル・ブジ」時代、僕は休日になると、ビーチに向かった。ひなびた漁村のロザスには、豪華クルーザーなんてやってこない。水着姿の男女が、ビール片手におしゃべりしているその脇で、黙々と〝漁〟にいそしむ男がいた。シュノーケルと足ヒレを付けてモリを持ち、海に潜っていくひとりの男。

それは、僕だ。

波に流されないよう岩にしがみついて目をこらすと、穴の中でかすかに動く、小さな目玉。タコだ! スミを吐く前に素早く摑んで浮き上がり、バケツに放り込むと、再び獲物を求めて海の中に入っていく。生活がかかっているから真剣だ。

「エル・ブジ」にやってくる研修生は、世界各地の星付きレストランで働いていた精鋭たちだが、基本的に無給。料理界では、こうした研修制度を取り入れているレストランが多い。トップレベルのレストランで働いたというキャリアは、その後、高い価値になるから、研修生にとっても悪い話ではないのだ。

しかし現実は厳しい。レストランの定休日は賄いも出ないから、自分たちで食べ物を確保しなくてはならない。中には〝エル・ブジ貯金〟をしてきたという堅実な研修生もいたが、僕も含めほとんどの人間はお金が足りなくて、いつもお腹を空かせていた。

スペインMAP
だから、海で獲れるタコやムール貝は貴重な栄養源。僕は夏の間、せっせと海に潜った。

「テツは、タコ獲りが上手なんだぜ!」とはしゃぐ仲間が、僕につけたあだ名は、〝プルポマン〟。プルポは、スペイン語でタコ。僕は、タコ獲りの名人として、仲間から一目置かれていた。

信州の山育ちなのに素潜りが得意だったのは、小学生の頃、夏休みになると父と一緒に海辺でキャンプしていたから。海で獲った魚や貝をその場で焼いて食べる自給自足の技術は、この頃培った。まさか活かす日が来るとは、人生、何が起こるかわからない。

世界各地の料理を味わう

住居は、店が用意してくれた。イタリア時代の初めに経験したような、オンボロの屋根裏部屋ではなく、店が丸ごと一棟を借り切ったいくつかのアパートで、十人くらいずつが暮らす。

休日の夜は決まってパーティーだ。全員が料理人だから、代わる代わる料理を作っては、仲間に食べさせる。懐にも優しいやり方だ。週替わりの料理はバラエティーに富んでいた。何しろ、一緒に研修していた仲間たちの出身地は、ポルトガル、モロッコ、アルゼンチン、メキシコ、コロンビア、ブラジル、とまさにグローバル。各国の料理が食べられるなんて、実に贅沢な話だ。

人気メニューは、ブラジルのポン・デ・ケージョやメキシコのタコス、そして僕が作る、お好み焼き。小麦粉と野菜、肉があれば、スペインでも、らしきものは作れる。工夫が必要だったのはソースで、スペインのスーパーで売っているBBQソースにハチミツを加えて、日本のお好み焼きソースっぽい味にした。これをかけて出すと、みんな大喜び。バースデイディナーの日に「テツ、あれ作って!」とリクエストしてくる仲間もいた。

お酒が入れば当然、にぎやかになる。時にドンチャン騒ぎに発展し、近所のおばさんに通報されたことも一度や二度ではない。シェフのところにも苦情が行って、𠮟られることもしょっちゅう。

時には、お金をやりくりしてロザスから飛び出し、バルセロナやサン・セバスティアン (*注1) の有名レストランまで遠出することもあった。

彼らは経歴もすごい。スペインの「ムガリッツ (*注2)」やアメリカの「フレンチ・ランドリー (*注3)」、ブラジルの「ドム (D.O.M.) (*注4)」など「世界のベストレストラン50」でも上位に入るレストラン出身者が軒並み揃う。彼らと話をしていると、世界の一流レストランの人気メニューから、スターシェフの働きぶりまで、リアルな情報がどんどん入ってくる。しかも、誰もがこの経験をもとに、さらなる高みを目指そうとしているのだから、刺激を受けないはずがない。

「エル・ブジ」出身の先輩シェフたちも世界で活躍中だった。「世界のベストレストラン50」で四回第一位を獲得した「ノーマ (*注5)」のスターシェフ、レネ・レゼピもその一人。僕がいた頃にも、ちょくちょく姿を見せていた。その頃、四年連続第一位だった「エル・ブジ」から首位を奪ったのが「ノーマ」だ。翌年「エル・ブジ」は、閉店した。

フランスを頂点としていたガストロノミー (*注6) の世界に風穴を開けた「エル・ブジ」。ガストロノミーの世界で、一歩も二歩も遅れをとっていた北欧から登場した期待の新星「ノーマ」。食の世界のグローバリズムを、まさに体で感じていた僕たちが、いつも一番盛り上がる話題は、「僕たちのうち、誰が世界をとるのか」。みんな目を輝かせながら夢を語っていた。

ロザスのビーチで捕獲したタコ。
ロザスのビーチで捕獲したタコ。
スペインといえば生ハム。よく通ったロザスの生ハム屋。
スペインといえば生ハム。よく通ったロザスの生ハム屋。

調理場で抱いた違和感

しかし、最先端のクリエイティブな料理を作る調理場での作業は、単調だった。僕たちが担う作業の大半は下準備で、調理の技術や感性を磨くようなものではない。素材の切り方も塩の分量もすべて決められているから、イタリアで経験したような、味のブレも一切ない。そんな隙がないのだ。持ち場は、毎週のように替わり、その度に細かく指示が出る。しかも作業中は、常にシェフが見張っていて失敗すると容赦ない。だけど、そこで萎縮してしまっては、続かない。

セクションシェフのロメオが、ミスを連発した時のこと。シェフがものすごい勢いで彼を怒鳴った。「お前なんか、一生ジャガイモの皮むきだ!」の言葉に、居あわせた研修生たちはシーン。
セクションシェフは、研修一年目で五十人の中から選ばれ、昇進した人がつく地位。そんな選ばれし者なのに、全員の前で怒鳴られてしまっては立つ瀬がない。とうとうロメオは泣き出してしまった。

「かわいそうに」と思っていた僕の耳に、他の研修生たちのひそひそ話が入ってきた。

「アイツもうダメだな」

「オレがセクションシェフをやってやるよ」

ここへは、誰もが「我こそは」と思って来ている。「エル・ブジ」でセクションシェフを務めたとなれば、当然、経歴にも箔がつく。隙を見せたら追い落とされる厳しい世界でもあるのだ。

失敗しても気にしない、𠮟られても我関せずの人もいる。僕がよく作業を一緒にしていた「フレンチ・ランドリー」のナンバー2、ヨナタンはその筆頭。貝を開こうとして身を傷つけ、そっと僕に回してくる。「勘弁してよ」と思いながらカバーするけど、たまにシェフにばれて、大目玉を食うことも。でも、いつも朗らか。

彼は、英語しか話さない。「エル・ブジ」は、カタルーニャのレストランであることに並々ならぬ誇りを持っているから、調理場での共通言語はカタルーニャ語。スペイン語ですらNGで、朝礼の時には、シェフが「いいか。ここではカタルーニャ語以外話すんじゃねえぞ!」と熱く語る。だけど、ヨナタンは素知らぬ顔。

仲間とのお好み焼きパーティー。前列左端がヨナタン、右端はパラス。
仲間とのお好み焼きパーティー。前列左端がヨナタン、右端はパラス。

「お前はいつまでエル・ブジにいるんだ?」とカタルーニャ語で問いかけるシェフ。当然、一言も返せない。

「わかってないんだろう?」

ヨナタンが何か返そうとしたら「英語は絶対禁止だぞ!」。

それでもヨナタンは、折れない。自分がなぜ怒られているかもまるで理解しようとしない。最後までカタルーニャ語を全く理解しなかったのは、ある意味、天晴れだ。それでもニコニコと楽しそうにしていられるんだから。

朝礼でみんながピーンと張り詰めている時も一切空気を読まず、ずっとラップを口ずさんでいたのは、アメリカから来た黒人のパラス、いきなりイタリアに帰ってしまって、そのまま戻ってこなかったルカ、スペインのバスク地方 (*注7) 出身のイヴァンは、勝手にバスクを背負っていて、「カタルーニャはちょっとね」といつもバスク語で話していた。

そんな個性的な仲間たちの間で、一番の働き者は中南米勢だ。彼らは、国が貧しいこともあってガッツがケタ違い。しかも故郷では料理人の地位が高いから、それを目指す彼らの志も高い。

とりわけ印象的だったのは、アルゼンチンの20代の女性たち。とにかく他人の仕事まで奪うくらいの勢いでバリバリ仕事をする。思わず「そんなに働いてどうするの?」と言いたくなるほど。

中南米人の活躍ぶりは、イタリア時代から耳にしていた。日本人の間ではよく「イタリアの厨房を支えているのは、日本人だ」と言われるが、当時、僕の耳に入ってきたのは、「中南米人、すげえよ」という声。日本人は手先の器用さや仕事の正確さで重宝されていたが、働きぶりで注目を集めているのは、断然彼ら。「エル・ブジ」で初めてその姿を目の当たりにして、僕も「これはかなわない」と唸った。

研修期間延長の申し出を断る

働き始めて1ヵ月もしない頃だろうか。オフィスに呼ばれ、シェフから、研修をさらに半年延長しないかと提案された。僕の契約は2010年の12月まで。「エル・ブジ」は、すでに2011年7月で閉店することが決定し、通常11月から翌年の3月までは店を閉めるところ、最後の年は通しでずっと営業を続けるとのことだ。

出勤前の腹ごしらえ。「エル・ブジ」プロデュースのビールと共に。
出勤前の腹ごしらえ。「エル・ブジ」プロデュースのビールと共に。
「エル・ブジ」の仲間たち。左から2人目は3人いるシェフの一人。
「エル・ブジ」の仲間たち。左から2人目は3人いるシェフの一人。

だけど、僕の返事は、「No」。

迷いはなかった。無給の研修生を一年以上も続ける余裕が僕にはない。そして、その頃、僕はこの料理には未来がないと薄々感じていたのだ。

最初に引っかかったのは、廃棄量の多さ。レストランでは、多かれ少なかれ食材を廃棄することがあるが、「エル・ブジ」のそれは半端ない。

極端な例だが、サバの腹だけを使うために一匹仕入れて、残ったところは廃棄してしまうという具合。にんじんだって、キューブ型に切り揃えようとすると、当然いらない部分が出る。

それらの一部を賄いに使うこともあったが、そんなものではとても追いつかない。見た目のカッコよさをも追求したクリエイティブな料理の裏側には、こんな現実が横たわっていた。

「次に行く店が決まっているの?」あっさりと断った僕に、シェフが質問した。

「行きたいお店はあります。『カン・ファベス』です」

その瞬間、空気が凍った。スタッフの一人が人差し指を口に当てて、僕に目配せ。ここでは、その店の名は禁句なのだ。研修生の中には、出身者もいたが、「履歴書から『カン・ファベス』の文字を消して提出したに違いない」と噂されるほど。

どちらもカタルーニャ地方にある三ツ星レストランだが、料理は対照的で、「カン・ファベス」はクラシックな料理を出す。そして、巨漢のシェフ、サンティ・サンタマリアは、スペインの一流シェフたちが組織する料理学会で、唯一「エル・ブジ」の料理を否定した人。彼は「食材は神聖なものだから、遊んではいけない」と発言し、ジャーナリストを巻き込んで大論争に。大半の人は「エル・ブジ」を支持したが、僕はサンティの言葉、もっと言えば、彼の料理哲学に共感していた。そもそも僕がスペインに強く惹かれたのは、「カン・ファベス」があったからなのだ。

誤解されることもあるが、「エル・ブジ」の料理も唐突に出来上がったものではなく、もともとは、フォワグラやオマール海老を使うコテコテのフランス料理からスタートしている。そこで地元の食材を積極的に取り入れるようになり、自分たちのルーツであるカタルーニャの郷土料理を改めて見直しながら次第に先鋭化し、独自の尖った料理を作るようになった。

僕たち研修生が受ける講義では、そうした流れについてもきちんと説明してくれた。彼らの料理への向き合い方については、僕も心からリスペクトしている。だけど、自分がずっと作り続けたい料理ではなかったのだ。

研修生の中には、〝エル・ブジ信者〟のような人たちも多くいたし、その頃からずっと世界最先端の料理を追求し続けている人たちもいる。僕にとって彼らは、今でも仲のいい友人だ。

次はどこへ?

平日は調理場にこもり、休日はタコ獲り、そしてパーティー。そんなふうにして、「エル・ブジ」での刺激的な日々は過ぎていった。

さあ、そろそろ次への準備を始めなくちゃ。僕はまず「カン・ファベス」に連絡を取った。今回は、この店出身のスペイン人に仲介してもらい、ポストがあるとの返事をもらえた。

ところが、ブラジル人研修生と親しくなるにつれ、僕の心のなかで、ブラジルのサン・パウロにある「ドム」が日に日に存在感を増していった。少し前から、メキメキと頭角を現し「世界のベストレストラン50」にもランクインし、南米に注目が集まるきっかけを作った店だ。しかもシェフのアレックス・アタラのことを悪く言う人がいない。そんな人ならぜひ会ってみたい。

南米出身の研修生たちの陽気さと前向きさもすごく好きだったし、店の調理場に届く、南米の食材にも興味津々だった僕の南米熱は、どんどん高まっていく。そしてついに「カン・ファベス」を辞退し、辞書を片手に、ポルトガル語で履歴書を作り、「ドム」のシェフに送った。

しかし、一向に返事が来ない。やきもきしていた時に、ミラノの邸宅で、プライベートシェフをしている友人から連絡があった。彼の後任を探しているという。ちょうどイタリアにも行ってみようかと思っていたし、そのついでに話を聞いてみようと、軽い気持ちで向かった。

彼に紹介されたマダムは、ハイブランドのミラノファッションに身を包み、上品でとても感じが良かった。隣に座っているご主人もニコニコしている。

そして提示された給料に、僕は目をむいた。破格だったのだ。僕はイタリア人の平均給与を知っている。その3倍くらいの金額と、僕用の車と住居を提供してくれるだなんて。

「ブラジルに行く前に、ちょっとここでひと稼ぎすれば?」

友人のささやきに、僕は頷いた。

そう。何もブラジル行きを完全に諦めるわけではないのだ。

ついに、腹を空かせ、休日ごとにタコ獲りに出かけた日々から解放される時が来る! しかも7ヵ月間、ガチガチに厳格な調理場で働いていた僕にとって、〝プライベートシェフ〟という肩書きはなんとも甘美に響いた。

「いつから来てくれる?」

マダムの問いかけに、「来年の三月くらい」と答えている僕がいた。

結果として、スペインでの滞在は7ヵ月にとどまり、僕は再びイタリアに戻ることになった。

2つの国を行き来して感じるのは、スペイン人は、素朴で勤勉、イタリア人は、商売上手だということ。例えば、スペインのバルが生ハムを切って、パンとトマトを添えて出すところを、イタリアは、もっと見栄えよく盛り付けて、もっと高い値段を付ける。高く売るためのトークも上手い。どう説明すれば、相手が乗ってくるかを心得ている。僕の友人も然り。

その時、僕はまだマダムの実態を知らなかった。優しく微笑む彼女が、まさか〝プラダを着た悪魔〟だなんて。だけど僕だって負けてはいない。〝プラダを着た悪魔〟から、〝カミカゼ〟と呼ばれたのだから。その話は、次回に。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ 大西洋に面したスペイン・バスク自治州にある、人口18万人の小さな街。旧市街には、ピンチョスと呼ばれる小皿料理を出すバルが軒を連ねる一方で、一流レストランも多く、「ミシュラン」の星を多く持つ〝美食世界一の街〟として注目を集めている。

注❷ スペインのサン・セバスティアンにあるレストラン。「世界のベストレストラン50」に2006年から現在まで11年連続ベスト10入りは快挙。シェフのアンドニ・ルイス・アドゥリスは、「エル・ブジ」門下生でもある。

注❸ アメリカのワインの産地ナパバレーにある、全米一予約が取れない店として知られるレストラン。「世界のベストレストラン50」で、2003年から2年連続第1位に。「ノーマ」(注5)のシェフ、レネ・レゼピが働いていたことも。シェフのトーマス・ケラーは、2004年ニューヨークにレストラン「パー・セ」をオープン。たちまち人気店に。

注❹ ブラジルのサン・パウロにあるレストラン。「世界のベストレストラン50」では、2011年にブラジル勢として初めてトップ10入りして注目を集めた。シェフのアレックス・アタラは、ブラジル産食材を積極的に活用。生産者や郷土文化に関心を持ち、料理を通じた社会的貢献にも力を注いでいる。

注❺ デンマークのコペンハーゲンに2003年にオープンし、「世界のベストレストラン50」で4度第1位に選ばれる。シェフのレネ・レゼピは、北欧の食材を使った料理で、北欧の食文化を世界にアピール。2015年には、期間限定で「マンダリンオリエンタル 東京」に出店し好評を博す。ドキュメンタリー映画『ノーマ、世界を変える料理』でも話題に。2016年末で一旦閉店し、農場併設のレストランを再開予定。

注❻ 美食について、調理法や盛り付け、それにまつわる科学や哲学をも含めた文化として捉えた概念。

注❼ ここでは、スペイン北部にあるバスク自治州とナバラ自治州のこと。ピレネー山脈をはさんだフランス領バスク地方を含めてそう呼ぶこともある。バスク語という独自の言語を持ち、スペインのカタルーニャ地方と同様に、独自の文化に誇りを持つ人たちが多い。

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