【新連載☆第2回】探せ!人生の味のごはん | 新米料理人は見た!グルメ大国イタリアの真実

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

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イタリアへの短期語学留学から帰国した太田哲雄は、東京で料理人としての修行を開始。5年後、再びイタリアの土を踏んだ。調理場で見たイタリア人たちの素顔とは?

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


イタリアへの語学留学から帰国した僕は、東京のイタリアンレストランで料理修業を開始した。

修業先のひとつ、青山の「筓櫻泉堂 (こうがいおうせんどう)」(*注1)は、当時東京でもっとも尖っていたイタリアンレストラン。安藤忠雄が手掛けたコンクリート造りの建物にある、すました感じの店だったけれど、調理場はじつに刺激的だった。

料理人は、全員イタリア帰りで、調理場の流儀もイタリア流。かつてイタリアの三ツ星リストランテでバリバリ働いていたシェフは、細かく指示を出してスタッフを押さえつけるようなことはせず、それぞれが与えられた仕事を、責任をもってやり遂げることを求めた。

そして休憩は、しっかり取る。昼の賄いではワインをガンガン飲んで、その後は、ゆっくりシエスタ。日本ではあり得ない自由なスタイルだったが、誰もが「イタリアはこうだから」と気にしない。僕もすぐになじんだ。

だが、あまりに居心地がよくて、つい長居してしまった。

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帰国から五年後、僕は再び、日本を飛び出した。

再びイタリアへ!

向かった先は、もちろんイタリア。まずは、手打ちパスタを修得するためにエミリア=ロマーニャ州へ行こうとしたが、目当ての店は、三ヵ月先までスタッフの空きがないと言う。そこで空くのを待つ間、トスカーナ州のフィレンツェで語学学校に通いながら、地元の「オラ・ダリア」(*注2)というリストランテに研修生として入ることにした。

この店のシェフ、マルコ・スタービレは、ヒゲをたっぷりたくわえた恰幅のいい男。「キアナ牛を使ったタルタル」など彼が作る料理は繊細で、センスの良さを感じさせるもの。ところが僕が行ってすぐ、異変が起きた。

当時のオーナーの何気ないひと言に傷ついたマルコが、営業時間中にトイレにこもってしまったのだ! いくらノックしても出てこず、調理場はパニック。ほかの料理人たちが「マルコ、こうやってたんじゃね?」なんて言いながら、どうにか料理を仕上げた。

マルコは次の日も店に来るなり、トイレに直行。肉料理のオーダーが入ると、誰かがそっとトイレをノック。するとこの日は、青白い顔をして出てきて、料理だけは作った。だけどそれが終われば、Uターンして再びトイレへ。

不幸中の幸いで(笑)、当時その店は、さほど流行っていなかったから、それでもなんとかなった。だけど、僕は本気でびっくりした。

なんでこんなにメンタルが弱いの?

傷ついたからといって、シェフがトイレにこもっていていいはずがない。

しかもシェフの情けない様子に、誰も文句を言わないなんて、どうやらこれは、イタリアでは珍しくもない光景なのか?

その後、僕は何度も同じような場面に出くわすことになる。日本では、どんなにつらいことがあろうとも仕事は別、と考えるけれど、イタリア人は、「彼女にフラれた」くらいで、塩加減が大きくぶれる。いや、それくらいならまだマシで、出勤してこない人もいる。だけど、それで周りから強く責められたりはしない。

イタリアのリストランテの調理場では、ずいぶんと前から日本人が重宝されていた。シェフ以外はすべて日本人、という星付きリストランテもあるほどで、業界全体が「頼むぜ!日本人」みたいな状況。「手先が器用」「勤勉」というのは、間違いない。

だけどもっとも際立っていたのは、「メンタルの強さ」ではないだろうか。世界的に見れば、感情を一定にして働けることには、大きな価値がある。日本人にとっては〝当たり前〟のことが、世界では当たり前ではないのだ。

ちなみにマルコは、いまやイタリアでも指折りのシェフとなり、大活躍している。きっと当時は、繊細な心を持て余していたのだろう。

いよいよ、本場でパスタ修業

三ヵ月が過ぎ、僕は念願のエミリア=ロマーニャ州へと移った。州名からもわかる通り、ここはエミリア地方とロマーニャ地方がくっついてできた州。僕が行ったロマーニャ地方の料理は、どっしりとした無骨さが特徴だ。

修業に入ったのは、前回、語学留学したリミニの近くにある「ラ・フラスカ」(*注3) というリストランテ。オーナーは、イタリアでソムリエチャンピオンに輝いたこともあるジャンフランコ・ボロネージ。イタリアでも機械打ちのパスタが増えているが、ここは手打ちパスタが有名で、メニューには、パスタを中心に構成したコースもあった。

初日、ジャンフランコに呼ばれて部屋に行くと、本棚には見覚えのある一冊があった。よく見ると、四年前に僕がリミニの書店のセールで買い求めた料理本だ。写真が一切載っていなくて、当時の僕はよく理解できなかったのだが、なんとそれは「ラ・フラスカ」のレシピ本だった。ここに来たのは運命なのだと僕の胸は高鳴った。

しかし、日々の暮らしは、実に地味だった。

パスタを打っていたのは、この道五十年以上というオルネッラおばちゃん。イタリアでは昔から家庭でお母さんが打つパスタは、「マンマの料理」として家族全員から愛されてきた。特にエミリア=ロマーニャ州は、かつて、結婚する娘に麵棒を持たせたという土地柄。店でも、シェフの奥さんやお母さんが手打ちパスタを担当することが多かった。

イタリアでは各地方ごとに土地に根付いた手打ちパスタがある。
イタリアでは各地方ごとに土地に根付いた手打ちパスタがある。
イタリアといえば多様なハムも有名。どこへ行ってもよく食べた。
イタリアといえば多様なハムも有名。どこへ行ってもよく食べた。

「ラ・フラスカ」の場合は、店がオープンする時に、オーナーが「オルネッラの作るパスタはおいしい」という噂を聞きつけ、スカウトしたらしい。

手打ちパスタは、日本で言うならそば打ちのようなもの。単純そうに見えて、じつは意外と奥が深く、かなりの熟練を要する仕事なのだ。僕は毎日、朝から晩まで、おばちゃんと一緒にパスタを打った。確かになかなかの腕の持ち主で、伸ばした生地がいびつだったり、でこぼこしていた時は、容赦なく怒られた。

つらかったのは、仕事以外の時間だ。

その頃、僕が暮らしていたのは、店の上階にあるロフトのような場所。築百年以上の建物で、床は傾き、夜中にはネズミが走りまわっていた。

仕事が終わるとヘトヘトになりながら、その部屋に帰り、シャワーを浴びる。ところが、からだを洗っていると、いきなり湯が水に。ウソだろ? と思って何度蛇口を回しても、一向に水は温かくならない。ヤバイ。からだが冷えていく。仕方なく部屋に戻ったが、どんよりとした。

あとでわかったことだが、イタリアの古い建物では、シャワーで使える湯量が決まっているらしく、使い切るとその日はもう水しか出ない。店で働くイタリア人たちは、自宅にシャワーがあるのに、店で汗を洗い流すことを日課にしていて、僕が使う頃には、もう湯が残っていなかったのだ。

そんな状況が毎日続くと、さすがにつらい。冷たい水しか出ないシャワーの下で、僕の疲労はどんどん積み重なっていったが、日本人の僕は、仕事だけはきちんとやった。

海外で働くなら、最初の一年をどう過ごすかが重要だ。イタリアのことが好きになれないまま一年いただけで帰国する人が意外と多いのは、生活のベースを作るのにすら苦労が絶えないからだろう。

もちろん言葉の問題もある。言いたいことが言えないもどかしさは常につきまとう。

僕はそこに貧乏も重なった。店との契約の時、イタリアの相場がわからないまま提示された金額にOKしてしまい、とても安い給料で働いていたのだ。そのため店の定休日には、食べるものにも困るような有り様だった。

ビザの関係で日本に帰らなくてはならないのに、ど貧乏だった僕は、どうしてもお金が足りなくて、出稼ぎに来ていたキューバ人の同僚に八百ユーロという大金を借りたこともある。洗い場担当の彼は、シングルファーザーで、故国の両親に子どもを預けて渡伊。彼はいつも、ボロボロのバッグのなかから家族の写真を取り出し、眺めていた。そんな男を頼らなくてはならないほど、僕は困窮していたのだ。

彼は、家族に仕送りをしていることに誇りを持っていて、一日のなかで少しでも幸せを見つけ、それを楽しむことができる。思えば、あの頃から、ラテン系のそんな気質に惹かれていたのかもしれない。お金は、日本から戻ってすぐに返した。

イタリアで仕事をするなら、当然イタリア人が有利だ。彼らは、外国人に対してどうしても上から目線になりがち。オーナーでもないのに「雇ってやっている」という態度を取る者もいる。

洗い場を担当しているそのキューバ人の前には、いつも汚れたお皿が山積みになっていた。ちょっと肉を焼いただけのフライパンでも、みんなすぐ洗い場に回す。

僕は自分の手が空いている時は、自分で洗えるものは洗ったり、洗いやすいようにお皿を整頓したりしていた。そんなところから、互いの信頼関係ができていたのかもしれない。

この頃の僕を支えてくれたのも、旅だ。店の休みの日には、何も食べるものがないから街に出るしかない。時には、足を伸ばして、ミラノやフィレンツェ、ボローニャなど国内を旅した。

もちろんホテルに泊まるお金なんてないから、夜は駅で野宿。たいていは、待合室の椅子の下で寝た。冬にフィレンツェを訪れた時、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅 (*注4) であまりの寒さに震えていると、ホームレスが「寒いだろ?」と自分の段ボールを貸してくれたこともあった。

半年が過ぎた頃には、パスタも上手く打てるようになり、調理場ではそれなりに存在感を発揮していたと思う。だが、給料を上げるよう交渉してもなかなか認めてはもらえない。そろそろ、次のステップを考える時に来ていた。

信頼できるシェフとの出会い

僕には、すでにイタリア人の知り合いがたくさんいたから、その伝手で働き先を見つけることは難しくなかった。最初に交渉したのは、ミラノにある名店だが、残念ながら僕の希望するタイミングと合わない。

縁がないのだと諦めたところに、ピエモンテ州在住の友人が、アレッサンドリアという街にある「ラ・フェルマータ」(*注5) で求人が出ていると教えてくれた。

連絡を取ると、面接に来いと言う。僕は、店に向かった。

オーナーシェフのリカルドとは初めて会った時から、とても会話が弾んだ。うれし
かったのは、彼の前でまだ一度も料理を作ったことのない僕に、「ラ・フラスカ」でもらっているよりもはるかにいい給料を提示してくれたこと。一回の面接で、信用してくれたのだ。家族経営の店らしい、温かい雰囲気も僕にあっている。僕は、この店で働くことに決めた。

ラ・フェルマータ時代。近隣のリストランテのシェフと。
ラ・フェルマータ時代。近隣のリストランテのシェフと。

アレッサンドリアは、海沿いのリグーリア州との境にある街で、フェルト生地で作るボルサリーノ帽発祥の地でもある。店で出す料理は、山の幸とバターや生クリームをふんだんに使う典型的なピエモンテ料理とはひと味違う軽快さがあった。

僕にとって有り難かったのは、シェフたちが、僕が外国人だということを意識せず、接してくれたこと。ビザのことにもきちんと対応してくれたので、安心して働くことができた。

また、もう一人のオーナーシェフのアンドレアと出会ったことで、語学力も格段に伸びた。この時点で、僕はすでに調理場での会話には不自由しなくなっていたけれど、料理仲間が教えてくれたイタリア語は、下ネタみたいなものも多く、洗練された会話にはほど遠かったのだ。

しかしアンドレアは、外国旅行にもたびたび出るようで視野が広く、会話が楽しい。調理法や食材の生産者について質問してもすぐに答えてくれた。

本当に幸運な出会いだったが、僕自身が納得して選んだ店であったことも大きい。

日本人は、交渉がヘタだとよく言われる。「働きたい」「OK」「やった!」で終わり。条件面での交渉などしないまま働き始めて、あとで後悔するというパターンもよく耳にする。僕自身も最初はそうだった。

その後、心がけるようになったのは、自分が雇われる立場であっても、相手を面接するような気持ちで出向くこと。そして自分について、しっかり語ることだ。
「僕はこんな人間で、こういう気持ちがあって、イタリアに来た。この店では、こういう技術を身に付けたい。ゆくゆくは、こんな目標を持っている」

仕事への意気込みを堂々と相手に伝えると、よりよく理解してもらえるし、相手に自分が提供できるものもはっきりとする。

ラ・フェルマータ時代。休みの日にはよく列車に乗ってあちこちへ出掛けた。
ラ・フェルマータ時代。休みの日にはよく列車に乗ってあちこちへ出掛けた。

シェフのことも、つねに一歩引いた目で見ていた。シェフの人柄に惚れ込むというよりも、そのシェフのどんなところが優れているのか、自分が彼のもとで働くことになったら、どんなことが学べるのかを冷静に判断するのだ。

人柄と仕事の技術は、必ずしも一致するわけではない。人柄に惚れ込んで一緒に働いても、自分の技術が向上しなければ意味がないと思っている。

面接では、イタリア人の欠点についても遠慮なく指摘した。
「イタリア人はメンタルが弱いから、ちょっとしたことで味がぶれるけれど、僕は感情を一定にして働ける。与えられた仕事を、責任を持ってやり遂げるのは、日本人にとっては当たり前のことだ」

そう伝えて、「日本人のくせに生意気だ」と言う人とは、距離を置いた。日本人には雑用しかやらせないシェフもいると聞くが、おかげで僕は、そんな目に遭ったこともない。

デザートシェフに就任

「ラ・フェルマータ」で働き始めて三ヵ月ほど過ぎた時のこと。デザート担当のシェフが辞めて、代わりを誰がやるかという話になった。

白羽の矢が立ったのは、この店に来たばかりの僕。

デザートは、「筓櫻泉堂」時代に担当したことがあった。デザート担当のいいところは、自分ひとりで集中して作ることができること。メンタルがぶれやすい同僚たちとの連係プレーで成り立つほかの料理にはない魅力なのだ。

その日から、デザートのメニューには、責任者の名前「TETSU OTA」という文字が印刷されるようになった。それを見たお客さんのなかには、食後、サービス担当者に「TETSUに挨拶したいから呼んで」と声をかけてくれる人もいる。僕がダイニングに出て行くと、大喜びで「おいしかった」「どうやって作るの?」と話しかけられるのが、とても誇らしい。時には、椅子に座り込んで話をすることもあった。

そんなお客さんが少しずつ増え、次第に、「TETSUが作るデザートがすごくおいしい」と評判が立つようになってきた。

その時、ようやくイタリアで、自分という存在を確立できたと思う。自分の作るものに自信が持てたし、お客さんとも堂々と会話できるようになった。

イタリアのリストランテで働く日本人は、すごく多い。腕の立つ人は、シェフからも頼りにされていて、日本に帰国するというと反対されることもあるようだ。

だけど、シェフの下についている限り、それを食べたお客さんは、シェフや店の味として記憶するだけ。裏方としてどんなに貢献していようとも、歯車のひとつに過ぎないのだ。

デザートというフィールドで、僕が思い切り自分の力を発揮できるようになったのは、本当に幸運だった。

そして、デザートは、さらなる幸運を呼んでくれた。ひとりのイタリアンマフィアとの出会いだ。彼との出会いがあったから、僕とイタリアとの関係はさらに深まった。その話は、次回に。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ かつて青山の裏通りに存在した高級イタリアンレストラン。建築家の安藤忠雄によるモダンな建物も話題に。現在は閉店。

注❷ トスカーナ州フィレンツェにあるリストランテで、シェフは、マルコ・スタービレ。トスカーナの伝統的な料理を、モダンに表現する。

注❸ エミリア=ロマーニャ州カストロカーロ・テルメにあった一九七一年創業のリストランテ。パスタ料理が人気で、イタリアの有名ソムリエ、ジャンフランコ・ボロネージがオーナー。現在は「トラットリア・ボロネージ」として営業。

注❹ 十四世紀に造られたゴシック様式の「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」に隣接する、フィレンツェのターミナル駅。

注❺ ピエモンテ州アレッサンドリアにあるリストランテ。海沿いのリグーリア州と近く、軽快な料理を出す。シェフのリカルドと妻のサービス担当、ティツィアーナを中心とした家族経営。

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