こんにちは、KitchHike編集部です。
KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。
太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪
- 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
- 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
- ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]
太田哲雄はカカオの魅力を伝えるべく、日本の実力派シェフたちのもとを訪問。少しずつカカオの輪が広がりつつあった。そしてついに三度目のアマゾンへ。向かったのは金の違法採掘現場!?水銀に汚染された川で捕れた魚たちが食卓に!?
構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴
アマゾンのカカオ村でクリスマスを過ごした僕は、200キロ分のカカオとともに帰国した。
マヤ文明 (*注1) では貨幣として利用され、アステカ王国 (*注2) では、年貢として納められていたカカオだが、その種に注目が集まるようになったのは、山火事がきっかけと言われている。予期せずローストされた種から独特のいい香りがすることを発見したのだ。ここからカカオは、フルーツとしてではなく、チョコレートの原料としての道を歩み始める。
チョコレートは、ローストしたカカオの種に油脂分や乳脂肪分、砂糖などを加えて完成する。美しい箱に詰められて販売されている一流ブランドのチョコは、驚くほど高価だが、それでも女性たちには大人気だ。
そんなチョコレート業界で最近注目されているのは、2000年代後半にアメリカで生まれた「ビーン・トゥ・バー」。カカオを原産地から直接仕入れ、ローストして板チョコに加工し、販売するまでのプロセスをすべて自分たちでやるスタイルをいう。小規模なチョコレート専門店を中心に、ここ数年日本でもブレイク中だ。価格が高くても人気なのは、味だけではなく素材そのものの価値を求める人たちが増えているからだろう。

僕は、こうしたチョコレートビジネスではなく、あくまでカカオをそのまま原料として扱うビジネスを展開したいと考えた。
これまでカカオの取引では、利益の大半を手に入れるのは加工者で、カカオの生産者の懐はなかなか潤わなかった。
カカオをカカオとしてビジネス展開し、生産者にしっかりと利益が回る仕組みを作ることは、究極のフェアトレードだろう。
仕入れるのは、今やり取りをしているカカオ村のみにすれば、取引額もまとまり、より産地と深いつながりができる。
チョコレートにしないことで、カカオの可能性は無限に広がっていく。種だけでなく果肉も料理に使えるし、皮は砂糖を加えて発酵させるとカカオヴィネガーになる。
今回、僕がカカオ村から持ち帰ってきたのは、カカオの種を周囲の果肉ごと取り出して発酵させ、天日干しにして乾燥、ローストしたもの。これをまずは、日本で活躍中の有名シェフたちに卸すことにした。僕自身が、「この人は」と思うシェフたちのもとに足を運び、カカオ村との出会いから、カカオの食材としての可能性、それを扱ったビジネスへの僕の考え方を伝えた。


時間はかかるかもしれないが、そうやって日本で少しずつカカオの輪を作っていこうと思っている。力のあるシェフたちがカカオを気に入り、自ら発信してくれるようになれば、カカオの輪はさらに広がっていくだろう。
シェフたちの店では、カカオを使った新たな料理がどんどん誕生している。ペルーですらカカオを使った料理はあまり見かけない。なかでも、最初に使ってくれた「フロリレージュ 」の川手寛康シェフ (*注3) は、カカオ村にも興味津々。五月に現地を案内したいと思っている。
自分の店を持っていない僕は、料理教室や料理会で、カカオを使った料理を積極的に紹介した。デザートはもちろんだが、ラグーソースに加えたり、赤ワインと一緒に煮込んだりとレシピの可能性は無限にある。
さらに僕自身でカカオペーストにしたものを材料としてパウンド型のフォンダンカカオも販売を開始。フォンダンショコラは、パティスリーやカフェなどでも人気のデザートだが、僕が作るのは、小麦粉を一切加えないフォンダンカカオ。カカオの香りをダイレクトに伝えることができる、ヘルシーなデザートだ。うれしいことに評判がよく、当初は百本ほどの売り上げを予定していたら、その十倍近いオーダーをいただいた。今は増産体制を整備中だ。
少しずつだけれど、着実に進歩している。利益がある程度まとまれば、しっかりと彼らに還元するつもりだ。娯楽のない村だから、映画館を作ると喜ばれるかもしれない。舗装されていない道に石畳を敷くのもいい。
そうやって暮らしが少しずつ変わっていくことで、村の人たちもさらに未来への希望が見えてくるだろう。
金の違法採掘現場へ
2016年の夏には、3度目のアマゾン訪問を果たした。
僕がペルーを訪れるたびに感じるのは、環境破壊の深刻さだ。食材の宝庫であり、資源の宝庫でもある一方で、環境破壊はどんどん進んでいる。森林伐採や河川の汚染で生態系は崩れていく一方だ。

原住民の人たちは、その日必要なものだけを捕るエコな暮らしのかたわらで、ペットボトルを平気で川に捨てることがある。彼らの日常生活の中にはペットボトルなんてつい最近まで存在していなかったから、どんな素材から作られているのかということや、環境破壊の原因になることにまで気が回らないのだ。
アマゾンは未開の地というイメージを抱く人が多いが、現在は、ほぼ何かしら人の手が入っている。資源や食材の宝庫であるがゆえそれ目当てに、外から、人がどんどん入ってくるのだ。
なかでも人気なのは、やはり金だ。アマゾンの川の流域には、金の採掘場が点在する。金の精製には水銀を使うやり方が一般的だが、ほとんどの場合、使用した水銀をなんのためらいもなく川に流してしまう。当然、川は汚染され、金の採掘に関わっていない人たちも大きな健康被害を受けることになる。
最近では、孤立部族のマシコ・ピロ族が山奥から降りてきて人の命を奪い、村を襲うことがある。実際に二つの村が、土地を捨てて撤退を余儀なくされた。水銀による健康被害や森林伐採など環境破壊が進み、部族が絶滅の危機にさらされていることへの抗議ではないかと言われている。
アマゾンと環境破壊は、もはや切り離せないテーマだ。僕自身、気にはなるもののどこから手をつけていいのかがわからなかった。
そんな時に金の違法採掘に村単位で取り組んでいるという話を聞き、現場に行って、そこで何が起きているかを自分の目で確かめてみることにした。
最初に相談したのは、ペルー在住歴50年の妻の伯父、ヒトシさんだ。彼は1970年代頃に、「一攫千金を夢見てやってきた人たちを金の採掘現場に案内した」と以前、話してくれたことがある。だけど、今回は「危険だからやめておけ」という。そもそも当時ほど金は採れない。
アマゾンの金の採掘場は、無数にある。テレビ番組で、アマゾンの外からやってくる脛に傷持つ者たちの集団が跋扈しているかのように紹介されたこともあるが、ペルーでは、村単位で、金の採掘に取り組んでいるところも多い。村民全員がその作業に従事するという点では、カカオ村の人たち全員がカカオで生計を立てるのと同じ。そこで暮らす人たちは、それしか収入を得る方法がないのだ。
アマゾンの奥地は、バナナやパイナップル、マンゴーくらいしか育たないところがほとんど。しかし、それを売って得られるお金はわずかで、収穫して市場まで運ぶための船の燃料代すらまかなえない。そんな村の人たちが、川で採掘した金で生計を立てることを一方的に責めるわけにはいかないだろう。
治安がいいか悪いかと言えば、きっとよくはない。だけど、僕が彼らの大切な金を奪おうとしているわけではないこと、僕は料理人で、彼らの食生活や食文化を学びたいことを誠実に伝えれば、道は開けるのではないか。
ただし外国人の僕が一人でたどりつけるところではない。自分自身の安全を確保するためにも、ペルー人のガイドは絶対に必要だ。そこでヒトシさんには、僕に付き添う必要はないし、交渉も自分でやるから、誰か紹介してくれないかと相談した。
水銀被害のある魚の味は?
僕は、金の採掘があまりに活発に行われていて、それを禁止する大統領令が出たというマドレ・デ・ディオス州を目指そうと計画していた。ヒトシさんが紹介してくれたのは、州都プエルト・マルドナードの日系人協会会長エルビスさん。
プエルト・マルドナードは、首都リマから800キロほど離れたボリビア、ブラジルとの国境近くにある街だ。ブラジル料理の店も多く、しばしばポルトガル語も耳に入ってくる。今でもリマからの直行便がほとんどない不便な場所で、ここに古くから日本人が住んでいたとは驚きだ。
日本からペルーへの本格的な集団移住は、明治32年(1899年)から。初回は790名で、以降もたくさんの日本人がペルーを目指した。移民たちは豊かな暮らしを夢見ていたが、与えられたのは、未開拓の土地であることがほとんどで、なかなか暮らしは軌道に乗らない。僕がペルーで最初に滞在したカニェテにも古くからの移住者が多くいたが、あそこは砂地。ここはジャングル。病に倒れる人も多くいたようだ。
日系4世のエルビスさんは、お父さんが日本人で、お母さんはスペイン人だという。もちろん一世の人たちが味わったような苦労とは無縁で、日本に対する特別な想いは持っていないし、日本語も話さない。
しかし以前、日本の自動車工場に出稼ぎに来ていたことがあり、3年間働いてお金を貯めて帰国。現在はそれを元手にプエルト・マルドナードでカフェレストランを経営している。
僕は、エルビスさんに現地でやりたいと思っていることを箇条書きにして伝えた。金の採掘現場の見学。村の人たちの家に滞在し、一緒に料理を作り、食べること。狩猟に同行すること。
僕が案内してもらったのは、マドレ・デ・ディオス (*注4) 川沿いにある人口200人くらいの小さな村だった。プエルト・マルドナードからは車でボート乗り場に行き、川をレンタルボートで下って村へと向かった。

川岸には、金の採掘場が点在していた。付近には同じように金の採掘を行う村が、もう2つあった。この辺りは鉱山が多く、土壌に金を含んでいるのだ。
金の採掘は、驚くほど原始的な方法で行われている。初めて現場を訪れた時、川岸に並ぶ無数の砂利の山に驚いた。古代遺跡かと思ったら、川底からホースで吸い上げられた泥の残りだという。泥のうち、比重の高い金だけがシート状のスポンジに吸収され、残りは無残に川岸に残されるのだ。
金のついたシート状のスポンジは、採掘場脇のビニールシートで覆われた作業所で、金と結びつきやすい水銀を使っていったん金だけを水銀に溶かし、そのあとあぶって水銀を揮発させ金を取り出す。金はある程度ストックしておいて売りさばくようだった。
使用した水銀は、そのまま川に流してしまう。彼らには、環境破壊につながるという意識はまったくない。そもそも彼らは水銀を扱う作業を素手や裸足で行うのだ。爪が変形している人もちらほらと目にした。
水銀が流れ込んだ川には、エイやパイク、マパラなどの魚たちが泳ぎ回っている。魚たちは、水銀をどこまで運んでいくのか。
滞在中、僕は食卓に出てきたナマズのようなプレコを村の人たちと一緒に食べた。間違いなく水銀に汚染されているであろうプレコは、見た目も味もいたって普通だ。彼らは、日々この川の水を飲み、水浴びをする。彼らの身体にこれからどんな影響が出るのかは、まだわからない。
違法だと自覚がある人は誰もいない。彼らは、中国や韓国の業者のやり方こそ違法だと断言する。最近、川から金が採れにくくなってきたことから陸地に目をつけた彼らは、森に火を放って木が燃えた後、一帯の土を掘り起こし、高圧洗浄機を使って金を取り出すらしい。
たしかに乱暴なやり方だが、だからといって村の人たちが水銀を川に流す行為が肯定されるわけでもない。
初めて使う石鹼に感激!
僕は、この村に4泊した。電気もガスも水道もない村の滞在費は600ドル。
ベッドがないのは当然だが、布団すらなくて、そもそも家と呼べるほどの建物もない。かろうじて雨露がしのげる程度に囲いがしてあり、鳥さんも虫さんもウェルカム。エルビスさんは、滞在中しきりに「もうムリ」とブツブツ。
滞在費は、僕の安全を買うための費用だ。


アマゾンの村を訪れると、貧しさを実感する。日本の貧しさとはレベルが違うのだ。テレビは、広場に一台だけ。滞在した時は、みんなでオリンピックを観戦していた。まるで僕が生まれる前の東京オリンピックの時のようではないだろうか。
毎日の食事は、魚とバナナが基本だ。そこにたまにタロイモやキャッサバが加わる程度で、毎日ほとんど代わり映えがしない。その日に採れたものを食べる。近くに市場なんてものはなく、冷蔵庫は村に一台あるだけ。仕事帰りのスーパーで、晩ごはんのメニューに頭を悩ませる都市の暮らしとはまるで違う。そもそも選択肢なんて何も存在しないのだ。
この時、僕は石鹼を持参していた。当然ここにはシャワーなんてものはなく、川で水浴びをするだけだが、石鹼の泡でからだを洗っていると、村人たちが興味津々で集まってくる。一人に石鹼を貸すと、我も我もと群がってきて、みんな大喜びだ。
石鹼はこの時見るのが初めてで、当然シャンプーなんてものも知らない彼らだが、体臭はほとんどしない。
思うに彼らの暮らしが、そもそもナチュラルだからではないだろうか。その土地でその日に採れたものをシンプルに料理して食べるだけ。洗剤や歯磨き粉に触れることもないし、もちろん化粧品や薬ともほぼ無縁だ。
生ゴミもコンポスト装置があるわけではないが、腐敗臭などはない。土地で育ったカピバラの骨を再び土地に埋めるのだから、まさに土に還していくということなのかもしれない。
僕の魚釣りの先生は、子どもたちだ。訪問時は乾季だったので、水量が少なくところどころに小さな沼ができていた。彼らは、発酵させた草の根を木の棒で叩いて白い液を出し、水の中にまく。すると魚が酔っ払ったように浮いてくるので、その瞬間にモリでひと突き!モリといってもただ木を鋭く削っただけのものだが、なかなかの腕前だった。
肉が食べたい時は、自分たちで狩りをする。狩りに出るのは夜だ。僕はカピバラ狩りに連れて行ってもらった。使うのは、鉄砲ではなく弓矢。僕もやってみたが、弓を引くだけでかなりの腕力がいる。矢をまっすぐ飛ばすことができるだけですごいのに、彼らは樹上の獲物を狙うこともできる。弓矢では、1匹仕留めるのにも手間がかかる。乱獲しようにもできないから、生態系を乱すことはない。こんなところでもアマゾンの人たちの暮らしは、よくできていると思う。
一方で、彼らは狩られる側でもある。恐ろしいのはジャガーだ。その村には襲われた人はいなかったが、付近の村では、足を食いちぎられたり、命を落としたりした人の話を聞く。アマゾンでは、今も狩猟採集生活が続いている。
先住民族との接触を断念
この旅を計画したとき、僕は金の採掘現場に行くことのほかに、もう1つ目的があった。
プエルト・マルドナードから近いマヌー国立公園内で暮らしているマチゲンガ族と交流を持ちたいと思ったのだ。
彼らの暮らしは、先住民族の中ではかなり僕たちに近い。暮らしている場所には電気が通っているし、電話も通じる。アマゾンでは、ツーリスト向けのエコロッジを運営している。文明と上手に付き合いながらもアマゾンにとどまり、自分たちの文化を守っているのだ。一方で、猿を狩って糧にする独特の食文化をもっているとも聞いていた。
マヌー国立公園内 (*注5) には、マシコ・ピロ族など孤立部族も含め先住民族が7、8部族くらいいると言われている。
孤立部族は、古くからずっと孤立していたわけではない。アマゾンの開発が進み、住む場所を奪われ、しかも彼らは病原菌に対する免疫がなく、外部からきた人間と接触すると病原菌に冒されバタバタと命を落とす。生き残った先住民は奥地に逃げ込むよりほかなかったのだ。


最終的には、マチゲンガ族との交流はかなわなかった。マヌー国立公園は世界遺産に登録されていることもあって、ペルー政府がしっかりと管理している。書類審査も煩雑で、先住民との接触の可能性がある場合には、いくつもの予防接種を受けなくてはならず、準備の時間が足りなかった。
アマゾンの暮らしは、土地と食、そして生命との距離が近い。根源的なものに触れられる一方で、社会のひずみにも気づかされる。近々、四度目の訪問も予定している。僕とアマゾンの関係は、これからもどんどん深まっていきそうだ。
そして次回は、いよいよ最終回。僕の今とこれからをお話ししたいと思う。
プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)
1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。
注❶ マヤ文明 現在のメキシコ南部及び近辺で紀元前3000年くらいに最盛期を迎えた古代文明として知られる。他の古代文明と異なり付近には大河がなく、人工的な貯水槽を使って雨水を利用して生活していた。ピラミッド型の建造物が発見されているが、その多くは謎に包まれている。
注❷ アステカ王国 15世紀頃、メキシコ中央部で建国し、スペインに征服され16世紀に滅んだ、わずか百年にも満たない短命の王国。今もメキシコ国旗には、アステカ王国の首都創設の伝説を表す絵が描かれている。
注❸ 「フロリレージュ」の川手寛康シェフ 青山にあるレストラン「フロリレージュ」のシェフ。父も叔父もすべて料理人という環境で育つ。高校卒業後、フレンチレストランで修業し渡仏。帰国後、オープン間もない「カンテサンス」で修業し、ミシュラン三ツ星獲得に立ち会う。2009年に「フロリレージュ」をオープンし、2015年に現在の場所に移転。オープンキッチンのシックな店内から、今の食のあり方を提案し続けている。
注❹ マドレ・デ・ディオス川 アマゾン川の支流で、マヌー国立公園を通過し、マドレ・デ・ディオス州の交通の要衝となる川。ジャングルの中を蛇行しながら流れ、魚などの水生生物も豊かな川として知られる。
注❺ マヌー国立公園 南米の秘境としても知られるペルー最大の国立公園で数多くの生物が生息することでも知られ、世界遺産にも登録されている。
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