【新連載☆第10回】探せ!人生の味のごはん | カカオ村の不都合な真実

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まりました!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

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記念すべき〝初アマゾン〟後、太田哲雄が向かったのは、イタリア。ミラノで出店計画を立ち上げたのだ。しかし現実の壁は厚く、計画中止を余儀なくされる。「次」を考えた彼は、アマゾン再訪を決断。運命の〝カカオ村〟へとたどり着く。そこで知った、不都合な真実とは?

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


ペルーでの料理修業を終え、念願のアマゾン探訪を果たした僕が、次に向かったのはイタリアだ。ペルー後の身の振り方を日本にいる妻に相談した時、彼女が提案したのは、もう少し海外生活を続けること。

「このまま日本に帰ってきてもおもしろくないでしょう。海外で店をやることを視野に入れてもいいんじゃない?」と言うのだ。

結婚以来、妻と一緒に暮らしたのは、〝プラダを着た悪魔〟ことミラノマダムに仕えていた時期だけ。それでも「早く帰ってきてほしい」とは言わず、僕の仕事について、冷静な意見を述べてくれるのはありがたい。日本に帰るものと思っていた僕は、海外出店の可能性を考えてみることにした。

候補地は、ミラノだ。翌2015年に万博(ミラノ国際博覧会)(*注1) を控え、景気が上向いていたし、観光客も増えることが見込まれる。毎年イタリアの料理学会が開催される地でもあり、何より僕に土地勘がある。マダムのところで働いていた頃、お世話になったマヌとご主人のヒロシさんがいるのも心強い。

【地図】ペルー
【地図】ペルー

ミラノでやるとしたら、料理はどうするか。最初は、伝統的なイタリア料理を出したいと考えた。しかし外国人の僕が作る伝統的なイタリア料理が、ミラネーゼたちの間で評判を得るには、それなりの時間を要するだろう。じっくり商売を育てるには、かなりの資金力が必要になってくる。

現地の弁護士や会計士にも相談した。商売としての安定性を求めるなら、原価が抑えられる「粉もの」だと言う。僕がやるとしたら、ピッツァだ。イタリアのヴェネト州にある「サポーレ」で働いていた時から、僕は何度となくオーナーのレナートに「一緒に店をやろう」と誘われていた。

実は、ペルー滞在中に一度だけ、僕はミラノを訪れている。レナートから「料理学会があるから来てくれないか」と連絡があり、航空券を手配してくれたのだ。その時にも一緒に店をやる話が出ていたが、ここにきて、俄然真実味を帯びてきた。

前にも書いたとおり、彼の作るピッツァは、彼にしか作れない独特のもの。対して、ミラネーゼがふだん食べているのは、ミラノ風の薄いピッツァ。この街にレナートのピッツァを持ってくれば、かなり注目を集めるのではないか。僕がやるのだから、ただ彼のピッツァを模倣するのではなく、以前、作っていた蒸すピッツァや茹でるピッツァのように、料理として完成度の高いピッツァを出せば、さらに盛り上がりそうだ。

レナート(左)と彼の奥さん(右)とは、たくさんのことを議論し合った。
レナート(左)と彼の奥さん(右)とは、たくさんのことを議論し合った。

そんな計画を胸に秘め、僕はリマからイタリアへと向かった。まずは物件探しだ。ヴェネト州にある、レナートの店で若手を指導し、「いい物件が出た」と聞くとミラノに足を運ぶ生活が始まった。

しかし、僕が希望する席数四十くらいの物件は、なかなか見つからない。多いのは、百席を超すような大型物件。日本円にして最低でも三、四千万、高いものだと一億。そんな物件を借金して手に入れたところで、僕は一体ピッツァを何枚焼けば返済できるのか。想像しただけで気が遠くなる。

賃貸物件もあったが、家賃が五十万円以上するところが多い。安いと思って喜ぶと、店の売り上げから十五%を徴収するという。  法律の制約が多い従業員の雇用も悩ましいし、税金も驚くほど高い。

懸念事項は他にもあった。マフィアの存在だ。ミラノには「バックにマフィアがついている」と噂されている店も多い。いいと思った物件について、イタリア人の友人に意見を求めたところ、「近くにナポリのマフィアがついているピッツァ屋があるから、テツの店が繁盛したらきっと店ごと爆破されるよ」と忠告されたこともあった。

ちなみに、元上司の〝プラダを着た悪魔〟には、相談しなかった。僕が働いていた頃から、ストイックに糖質制限を課していたマダムに「ピッツァ屋を始めたい」と相談するのは、お門違いというものだろう。

最終的には、十数軒くらいの物件を見ただろうか。どんな物件であれ、日本とは比べようもないくらいの初期投資がかかることは明白だった。  料理人にも旬がある。今ミラノで店を持っても、投資を回収するのに十年はかかる。これからの十年、毎日せっせとピッツァを焼き続ける生活でいいのか。

ピッツァの店を計画したのは、そこにビジネスチャンスを感じたからだ。しかし、僕は「ピッツァ職人」として生きていく気はない。最終的には料理人として、日本で店を持ちたい。それならいま自分が取り組むべきことは何か。

結論は、ミラノからの撤退だ。いつか縁があれば、また出店を考えることもあるかもしれない。だけど、今は難しい。

次に目指すは「山側のアマゾン」

帰国を決めた僕が、ミラノから向かったのはペルーだった。これで日本に帰れば、しばらくは落ち着かない日が続くだろう。その前に、もう一度しっかりとアマゾンを見ておきたいと思ったのだ。イタリア滞在中も、僕は空いた時間にインターネットを使って、ペルーやアマゾンのことを調べていた。

イタリアが、僕の料理人としての基礎を築いた国だとしたら、ペルーは、僕に料理人としての可能性を開いてくれる国だ。ここで学べることは、まだたくさんある。

今回のペルー訪問の目的は二つ。一つは、ペルー北部の伝統料理を勉強すること。そのため、前半はチクラヨに滞在した。

イタリアでもそうだったが、僕は最新の調理技術を駆使した料理よりも、人の暮らしに根付いた伝統料理に興味がある。古来、自然と上手に付き合ってきた人類の知恵が詰まっているからだ。

もう一つは、再びアマゾンを目指すこと。自給自足を前提としたアマゾンでの暮らしは、僕たちが失ってしまった感覚を呼び戻してくれる。前回は何もわからないままアマゾンに入ったけれど、今回は、もっとしっかりと向き合いたかった。

アマゾンは、広大だ。自然も暮らしの営みも一律ではない。すべてを知ることはできないとしても、少しずつでもより広く深く学びたいと考えた僕は、川から入った前回と異なり、今回は山から入ることにした。

僕が密かに企んでいるのは、アマゾンの食文化を勉強して料理本を作ること。そんな僕の夢を応援してくれたのが、リマ在住の料理人トシロウさんだ。本名は小西紀郎さん (*注2)。四十年以上前に、後に「ノブ」を成功させる松久信幸 (*注3) さんに誘われて日本からペルーに渡ってきた料理人だ。松久さんがペルーを去った後もリマで日本料理を作り続けた、ペルーでもっとも有名な日本人の一人で、僕も大いに刺激を受けた。この時も「面白そうだな!」と励ましてくれ、自分の進もうとしている道は、間違っていないと心を強く持てた。

今回の旅では、ペルー人のガイドを雇うことにした。五十年近くペルーで暮らす妻の伯父に「誰かいないか」と尋ねたところ、タラポト在住のフアンという男を紹介してもらった。彼と、その友人に案内役をお願いした。

お世話になったトシロウさんと。残念なことに2016年に亡くなった。
お世話になったトシロウさんと。残念なことに2016年に亡くなった。
〝ニッケイ料理〟で世界的にも有名な「Maido」のミツハルさん(左)からも多くのインスピレーションを受けた。
〝ニッケイ料理〟で世界的にも有名な「Maido」のミツハルさん(左)からも多くのインスピレーションを受けた。

タラポトは、チクラヨからアンデス山脈を越えて東に向かったところにある小さな町。海外からの観光客にはあまり知られていないが、ペルー人には「大自然を満喫できる場所」としてそれなりの知名度がある。

僕は、フアンたちとともにタラポト経由でアマゾンへと入った。彼らにあらかじめ伝えてあったのは、ゾウムシの幼虫「スリ」と、女王アリの「ママコ」を見たいということ。どちらもアマゾンで食料とされている昆虫だ。現地の人たちとともに捕獲し、どんなふうに料理するのかが知りたかった。

まずは現地の案内人と奥地に入り、スリ探しだ。ニワトリの卵くらいの大きさをしたスリは、甘い香りのするフルーツの木に住み着いている。案内人は、木の穴から丁寧に掘り出し、口の中を噛み切られないよう、頭部を除いてから口に運ぶ。セミの幼虫のように茶色い殻をかぶった虫は、アマゾンで暮らす人たちの大切なタンパク源。市場では、生きたままバケツいっぱいに詰め込まれ売られている。

案内人からいきなり「ほら」とスリを差し出された僕は、頭部を取り除き口に運んだ。殻は予想どおりパリッとしている。なかはクリーミーで白子のよう。ほんのりとフルーツの香りがして、なかなかの味だ。

ところが、フアンたちは完全にビビっている。手に触れることすらできないのだ。ペルーの都市生活者は、きっと大なり小なりこんなものだろう。

ママコは、タラポトから二十キロほど北西に行ったところにあるラマスに生息するアリだ。これもアマゾン住民たちにとっては大切なタンパク源。炒めたものを食べてみると、まるでエビのように風味が豊かだった。

スリ
スリ
ママコ
ママコ
チクラヨで。海辺に立てかけてあった漁に使う手漕ぎボート。
チクラヨで。海辺に立てかけてあった漁に使う手漕ぎボート。

最近は、世界の一流レストランのメニューにも昆虫が登場することがある。しかし単に物珍しさから選ばれているようなことも多いように思う。もともとアリを食べる習慣がない地域のアリを捕まえてむりやり食卓に出しても、命を慈しむような感覚にはならないだろう。

僕は、アマゾンの食材を、もっと広く多くの人に知ってもらいたいと思っている。物珍しさを強調するのではなく、現地の人たちの暮らしのなかで、その食材をどんなふうに尊重し、役立てているかをしっかりと伝えたい。それはまさに、生物同士の真剣な命のやり取りだからだ。

〝カカオ村〟との運命の出逢い

ガイドのフアンは、思いのほか頼りにならない。市場に行く日、彼は集合時間を朝八時に指定した。三人で集まって市場に行ったが、すでに陽は上り、めぼしいものがほとんどなかった。一事が万事そんな調子で、質問してもまともな答えが返ってこない。むしろ僕の方が詳しいこともあるくらい。これではガイドの意味がない。堪忍袋の緒が切れかかった時、フアンが提案してきたのが〝カカオ村〟だった。

そこでは、カカオの栽培をはじめ村人ほぼ全員が、カカオに関わる仕事をしているという。ペルー人でも知らない人が多いが、カカオはフルーツだ。大きさはラグビーボールくらいで、りんごやみかんと同様、木になる。

ペルーは、カカオの原産国でありながら、カカオの扱い方に長けていないところがある。日本のような高級チョコレートなんて見たことがないし、カカオが食材として使われることもほとんどない。コーヒーも同様だ。日本で飲む方がはるかに美味しいし、バリスタという職業も最近ようやく認知され始めたところ。カカオもコーヒーも世界中で取り引きされているのに、お金も知恵も原産国を素通りしているような印象をもっていた。

僕はフアンたちと一緒に車でカカオ村へと向かった。

天然の蜂蜜を採取。右端がガイド役のフアン。
天然の蜂蜜を採取。右端がガイド役のフアン。

そこは、本当に小さな村だった。通りの正面で僕たちを迎えてくれたのは、カカオを手にした聖人の像。広場には、干したカカオが並んでいた。ひとつ味見させてもらうとすごく美味しい。品種は、クリオロ種 (*注4) だと聞いて納得だ。カカオの中でも最高品種で、しかも希少価値が高い。

栽培だってとても丁寧だ。虫がつきやすいカカオの木を、こまめに世話しながら無農薬で育てている。

ところが、村はちっとも潤っていない。舗装されていない道路と簡素な家、電気は通っているが、Wi−Fiは飛んでいない。娯楽施設はなく、パソコンはカカオ工場に一台、広場にあるカフェのようなところに一台。それでも人々の表情が明るいのは、南米人の愛すべき気質のおかげだろう。

カカオ工場も見せてもらったが、工場とは名ばかりで、日本の精米所くらいの規模感だった。雑談の際に出してくれたココアは、出し殻で淹れたような薄いもの。工場は、フル稼働にはほど遠い状態だ。彼らは、クリオロ種のカカオにふさわしい売り方を知らないようだった。

滞在時間は短かったが、僕の心にははっきりとした違和感が芽生えた。

発展途上国と先進国をフェアトレードでつなぐ取り組みは、今や世界のあちこちで行われている。僕にも何かできることがあるかもしれない。

そんな想いを胸に、イタリアからペルー経由で日本に完全帰国したのは、2015年6月。イタリアのフィレンツェで働き始めたのが2004年だから、11年間海外で経験を積んだことになる。

カカオ村の未来を託される

帰国後は、自分の店をもつ計画を練りながら、食のイベントや料理教室、食事会などたくさんの仕事に取り組んだ。店に縛られず仕事をするなかで、僕は料理人という仕事に自由な可能性を感じていた。

そんな慌ただしい日々の中でも、アマゾンのこと、カカオ村のことは頭から離れなかった。もう一度じっくり話を聞きたいと考えた僕は、その年の12月に3度目のアマゾン訪問を実行する。

カカオ村を訪れた時「これからクリスマスパーティが始まる」と言われ、僕も参加 することになった。子どもたちは、楽しげに路上でサンバを踊っている。アマゾンのクリスマスパーティって、どんなだろう?と華やいだ気分で会場に向かうと、テーブルのうえにビールがあるだけで、思いのほか質素だった。待っていても料理が出てくる気配はない。壇上では歌手が歌っているけれど、空腹の僕は、なんとなく物哀しさを感じてしまう。ヨーロッパのクリスマスを知っている僕は、その違いに愕然とした。どんなにクリスマスを祝う気持ちがあっても、それを表現するためには、経済力が必要なのだ。

カカオ村の聖人像。
カカオ村の聖人像。
クリスマスで賑やかなカカオ村。
クリスマスで賑やかなカカオ村。

工場で作っているチョコレートも味見させてもらった。しかしせっかくのクリオロ種のカカオが活かしきれていない。唐辛子フレーバーのチョコ、乳脂肪分を足したトリュフチョコ、ハート型のチョコ。「これ、日本で売れるかなあ?」と聞いてくる無邪気さに一瞬、戸惑う。

だって、売れるはずがない。チューイングガムのようにいつまでも口のなかに残っているほど口どけが悪いのだ。他のものも形や厚さ、フレーバーの付け方がまったく洗練されていない。

だけど、すべて伝えるのはあまりに酷だろう。「もう少し口どけが良くないと、日本人は買わないと思うよ」と返すと、彼らはしょんぼりしていた。

ほとんどの村民は、この村から出たことがない。世界の高級チョコレート市場なんて、はるか彼方の世界。そこでどんなチョコが、どれほど高値で取り引きされているか、彼らには想像もつかない。
毎年パリで開催されているチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ (*注6)」では、高額なチョコレートが飛ぶように売れる。この村のカカオを使った商品も入賞したことがあるのだが、彼らは、その栄華から切り離されていた。外からやって来た僕の目には、この村に明るい展望がないように映った。

若者たちは、ほとんど娯楽のないこの村で肉体労働に従事している。日本の若者たちのような多種多様な選択肢は存在しないし、将来の夢を熱く語ることもない。

僕は、村の長老や工場長のアルトゥーロと言葉を交わすうち、この村が抱える問題が、次第にはっきりと見えてきた。長老は僕に向かってはっきりとこう言った。

「この村を頼む」

カカオを使って商売をして、村にきちんと還元できるようなフェアトレード (*注5) の仕組みを作るにはどうすればいいのか。  僕は、料理人としてカカオという食材に可能性を感じていた。

カカオはチョコレートに加工しなくてはならないと多くの人は考えている。この村の住民たちも例外ではない。カカオをチョコレートにする過程で加えるのが、乳脂肪分、糖分、油脂分だ。それらを多く加えれば加えるほど、カカオの占める割合が低くなり、原価を抑えることができる。つまり加工業者が儲かる。しかし、カカオの原産地であるこの村に、その儲けが回ってくることはない。

カカオの恵みを市場を通じて村に還元するには、どうすればいいのか。そもそもチョコレートに加工する必要はあるのだろうか。まずは自分で使ってみようと考えた僕は、その場で二百キロ分のカカオの購入を決めた。

次回は、さらに僕のカカオへの取り組みについて書いていきたいと思う。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ ミラノ国際博覧会 2015年5月1日から10月31日まで、イタリアのミラノで開催された大規模な国際博覧会で、テーマは「地球に食料を、生命にエネルギーを」。開催期間中は予想を上回る2,220万人が来場した。会場の日本館は大人気で、「クール・ジャパン」をアピール。

注❷ 小西紀郎 こにし・としろう(1953年〜2016年)1974年にペルーへ渡り、松久信幸(現NOBU RESTAU- RANTS経営者)とともにリマの「Matsuei」で日本料理人として働く。松久氏がペルーを離れた後も店に残り後進を指導し、ペルー国内外での日本食文化の発信に貢献する。2008年南米大陸在住の日本人として初めて農林水産大臣賞を受賞。リマの「Toshiro’s Sushi Bar」は現在も営業を続ける。

注❸ 松久信幸 まつひさ・のぶゆき(1949年〜) 東京の寿司屋で修業後、24歳の時にペルーに渡り、日本食レストランを立ち上げる。その後、アルゼンチンを経て米国へ。一九八七年ビバリーヒルズに日本食レストラン「Matsuhisa」をオープン。1994年には俳優ロバート・デ・ニーロと「NOBU New York」をオープン。その後も世界に店舗を広げている。

注❹ クリオロ種 カカオは、赤道付近の高温多湿帯でのみ栽培可能なフルーツ。なかでもクリオロ種は、独特の香りを持つ品種で、フランスのショコラティエの間でも高い評価を得ている。高級チョコレートに使用されることが多い。

注❺ フェアトレード 発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に買い取ることにより、発展途上国の生産者や労働者の生活改善を図る商取引。

注❻ サロン・デュ・ショコラ パリで毎年秋に開催される大規模なチョコレートの祭典で、世界中から集まったパティシエ、ショコラティエたちが腕を競う。日本では、毎年「サロン・デュ・ショコラ日本」が開催され、人気を集めている。

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