【新連載☆第1回】探せ! 人生の味のごはん | イタリアの老舗レストランからペルーのアマゾンまで!太田哲雄が料理人を志すきっかけになった言葉とは?

こんにちは、KitchHike編集部です。

KitchHike Magazine読者にはおなじみの料理人、太田哲雄さんの連載が始まります!講談社発行の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」との合同企画。毎月1回発行の原稿をKitchHike Magazineでも掲載していくことになりました。

お皿の上や厨房だけでは留まらない、突き抜けたアイデアと無尽蔵の突破力を兼ね備えた太田さん。どうやって、今のような稀代の料理人になったのでしょうか。

若かりし頃は、失敗や苦労、悩み抜いた決断もあったかも?一度会ったら、みんな大好きになってしまう太田さんのこれまでの人生を一緒に追いかけてみませんか?記念すべき第1回目は、アマゾンに渡った理由と料理人を志したきっかけのお話です。

太田さんのインタビュー記事を読んでみよう♪

  1. 世界中で修行を重ねた太田哲雄シェフの映画のような半生!「エル・ブジ」からアマゾン料理まで|インタビュー第4弾[1/3]
  2. 土着的なものの先にこそクリエイティブがある!ミラノのプライベートシェフを経てペルーの砂漠村へ渡る太田哲雄シェフ|インタビュー第4弾[2/3]
  3. ペルー最高峰のレストランから、食材の原種を辿るべくアマゾンへ!料理をめぐる太田哲雄シェフの冒険譚最終章|インタビュー第4弾[3/3]

oota-illust

料理人として、イタリアンマフィアからアマゾンの原住民まで、世界中の人たちの舌を喜ばせてきた太田哲雄。土地の匂いを敏感にかぎとる、グローバル時代の料理人が探し続ける、人生の味とは?世界を巡る料理人の物語。新連載スタート!

構成・文/今泉愛子 写真/太田哲雄
イラスト/仲 琴舞貴


ペルーの首都リマから長距離バスに揺られること三時間。バスから降りると、そこには寒々とした砂地が広がっていた。

「いや、ムリ」

辛うじて視界の端に映ったのは、破れたトタン屋根のボロ家と、今にも倒れそうな電柱、ワルそうな野犬の群れ……。これからすっかり、その魅力にとりつかれてしまうことになるこの国で、初めて目にしたのは、見渡す限り砂が舞うこの光景だった。

ヨーロッパで十年近く料理修業していた僕は、最後の修業の地として、南米のペルーを選んだ。ここ数年、南米は世界中のグルメから、新しい美食の地として注目を集めている。とりわけペルーは、アンデスの山岳地帯と熱帯雨林のアマゾン、長い海岸線をもつ食材の宝庫だ。

「どんな料理と出合えるんだろう」とやる気まんまんで乗り込んできたはずだったのに、あの光景を前に、僕の心は、あっけなく折れそうになった。街の名は、カニェテ。リマから海岸線を南に二百キロほど下ったところにあるこの街に来たのには、もちろん理由がある。

ペルーに来たのは、カリスマシェフ、ガストン・アクリオ(*注1)の存在が大きい。「世界のベストレストラン50」で上位にランクインしている「アストリッド・イ・ガストン(*注2)」を率い、「料理の力で、国を動かす」と言われるこの男に、どうしても会ってみたかったのだ。

しかし、僕にはここで思い出すべき経験があった。「世界一予約が取れない」と言われたスペインの「エル・ブジ」で修業していた時のこと。天才シェフ、フェラン・アドリアのクリエイティビティを存分に注ぎ込んだ料理を学ぶため、厨房には世界中からやってきた研修生たちがいた。刺激的な毎日ではあったが、僕は、なぜか咀嚼しきれなかった。「エル・ブジ」の料理には、ところどころ地元カタルーニャのエッセンスが入っている。うまく咀嚼できなかったのは、スペインのこともカタルーニャの郷土料理のことも知らないまま調理場に立っていたからだ。

僕は、まずペルーの郷土料理を知る必要がある。そこで向かったのが、カニェテで四十年以上営業を続ける「エル・ピロート(*注4)」だった。

砂漠にあるこの店の調理場で僕を迎えてくれたのは、ペルーの元気な人々と食材たち。これを見るなり、不安は一気に吹き飛んだ。珍しい魚、鮮やかな色をしたフルーツ。何種類もある唐辛子は、それぞれに色も形も違う。店で、僕が最初に取りかかったのは、唐辛子の掃除だ。専用の手袋をして、ひとつひとつ種を取り、白い筋をていねいに取り除く。それが終わったら、大鍋で三回くらいゆでこぼし、皮がペロッとはがれたら、ペーストにする。ここでは、ペルー料理の基礎を一から教わることができた。

そして念願の「アストリッド・イ・ガストン」へ。「エル・ブジ(*注3)」にいた時のような迷いはもうない。ペルーの食材をふんだんに使う料理を毎日懸命に作った。

だが、課題ができた。今、ペルーのクリエイティブなレストランでは、アマゾンの食材を使うことがひとつの流行りとなっていて、ここ「アストリッド・イ・ガストン」の調理場でもさまざまなものに触れた。アマゾンの食材のことをもっとよく知りたい。

「アマゾンへ行く!」

僕はそう宣言した。食材の宝庫に自分で行って確かめてこようと思ったのだ。しかし仲間のペルー人たちは、きょとんとしている。

「治安が悪いよ」
「何時間かかるか、わかってる?」

アマゾン系ペルー料理は、手に入る文献が乏しく、一般的にあまり知られていない。だから僕は、自分で動いた。勇ましい気持ちを胸に、僕はアマゾンを目指した。

いよいよアマゾンへ!

好奇心は、あった。だけど、アマゾンへの行き方は、知らなかった。とりあえず、向かったのはアマゾンの玄関口イキトス。ここには、「この世のすべてが揃う」と言われる市場がある。一度行ってみたいと思っていたのだ。

市場は、ベレン・アルタ地区のスラム街にあった。屋台に並んでいるのは、体長三メートルほどの巨大魚ピラルク、その横には、ピラニアやカメ。足もとには、バケツいっぱいの川エビ。かたわらでは、おばちゃんがナタを振り回してワニをぶった切りにしている。

野菜やフルーツだって山ほどある。色とりどりの唐辛子やスターフルーツ、アサイー、タピオカ、ココナッツ、房ではなく茎ごと売られるバナナ。薬のような謎の粉末や液体も。

にぎやかだと思ったら、生きたままの鴨や鶏が、狭いカゴのなかでバタバタと動きまわっていた。サルもヤギも路上に繫がれた状態で、売り出し中だ。

DSCN0773
最大1.5メートルにもなるナマズ。
DSCN0003
肉食のマタマタ亀。

残酷? とんでもない。家庭で食べる直前に解体された動物たちは、皮も骨も内臓もすべて人間の生活の糧となる。ワニだって、皮を剝がされて財布になるよりは、ずっと幸せだろう。市場では、小学生くらいの子どもだってバリバリと働いている。痛々しさなんて微塵も感じさせない。

さらに進むと、サルの骸骨が積み上げられ、台の上にはヘビの剝製が。まさにカオス。なんでもあり。初めて触れた、怪しげなパワーにめまいがしそうになった。が、ぼんやりしている場合ではない。僕は、アマゾンに行くんだ。

イキトスの旅行会社には、アマゾンツアーの案内が揃う。内容を聞くと、ほとんどが、ツーリスト向けのロッジに一、二泊して、旅行会社が用意したアクティビティを体験するというもの。僕がやりたいのは、アマゾンの人たちと生活をともにすること。だけど、そんなツアーはどこにもない。
途方に暮れていた時、ふらりと入ったボロボロのオフィスでようやく「オレが案内してやるよ!」という男と出会った。しかもその夜は、彼の自宅に泊めてくれると言う。信用していいのか? いい。大丈夫。僕の直感は、即GOサインを出した。

翌朝、男と二人で舟に乗り、アマゾン川の北上を開始。「いよいよアマゾンだ」と意気込んでいたら、三時間ほど行ったところで、男は僕の肩を叩いて「じゃあな!」。あれ? 僕はどうなるの?
横を見ると、隣に立っていたのは、前歯が四本くらい欠けた素足のおっさん。次は、どうやらこのおっさんと行くらしい。そこからまた舟に乗って、数時間。たどり着いた小屋には、十三人の子どもたちとお母さんが暮らしていた。お父さんは、何日か前に毒ヘビに嚙まれたらしくて、別の小屋でウンウンうなっている。だけど、ちっとも深刻な感じがしないのは、アマゾンではそれも日常のひとコマだからだろう。僕は、子どもたちと一緒に、ペットのナマケモノと並んで、床についた。
こうして僕のアマゾン暮らしがスタート。庭で飼っている鶏をしめるのは、まさに朝めし前。さばいたばかりの生温かい肉を薪の火で焼く。

DSCN1294
人間なら2歳児のナマケモノ。
DSCN1336
ハチに鼻を刺されたおじさん。

ハチミツが欲しければ、森へ。ハチの巣を見つけてそっとナイフを入れると、ハチミツがドクドクとこぼれ出してくる。そっと口に入れたら、ビックリするほどクリア。これまで食べたどのハチミツよりもすっと舌になじむ甘さだ。現地の人たちは、必要な量がとれたら、巣に木でそっとフタをして村に戻る。

アマゾンの人たちの貴重なタンパク源と言えば「スリ」。ゾウムシの幼虫で、大きさはニワトリの卵くらい。セミの幼虫みたいに、茶色い殻でおおわれている。

これを見つけるのは大変な作業だ。アグアヘというフルーツの木に空いた穴を探し、そこから掘り出す。案内人は、見つけると、大喜びで手にとり、パクッと食いつく。じっと眺めていたら、「おまえにもやるよ!」と貴重なひとつを僕に差し出してくれた。早速口に入れると、殻は、見た目通りパリッと香ばしく、中の幼虫は白子のようにとろとろ。フルーツのなる木に生息しているだけあって、あんずのようにフルーティな香りがしてなかなかの美味。だけどそこにいた臆病なペルー人たちは、誰ひとり手を伸ばしもしなかった。おいしいのに。

DSCN1151
自生した水草の向こうに広がるアマゾン河。

アマゾン滞在を終えると、僕は、十一年に及ぶ海外生活に終止符を打った。できれば、近いうちに東京で自分の店を持ちたいと考えている。僕はキッチンにこもってストイックに料理だけを追求したいとは思わない。料理人が主役になるような料理を作るのではなくて、料理を通じて、人と人、人と社会の関係を築いていきたいのだ。

東京食べ歩きひとり旅

僕が、料理に興味を持ち始めたのは、長野県白馬村にいた高校生の頃だ。当時、テレビ番組「料理の鉄人」が大人気で、欠かさず見ていた僕は、一流シェフたちの料理が、どうしても食べてみたくなり、アルバイトでお金を貯めて、東京への食べ歩き遠征をスタート。五千円もするような食事に付き合ってくれる友人はいないので、ひとりでスーツを着て、週末のたびにいそいそと出かけていた。

当時、訪れたのは、フレンチでは、青山の「ジョエル(*注5)」や三田の「コート・ドール(*注6)」、イタリアンでは、西麻布の「アルポルト(*注7)」や広尾の「マリーエ(*注8)」、青山の「リストランテ・ヒロ(*注9)」など。名だたるシェフたちの店は、どこも輝いていた。すでにその頃、料理人という職業に、興味をもってはいたのだと思う。だけど、まだ僕は、食べる側にいた。

高校卒業後は、イタリアに語学留学することに決めた。スキーをやっている弟が、幼い頃から海外遠征を繰り返していたので、自分も早く海外に出たい、という気持ちが強かったのだ。実家が白馬村で営んでいるペンションには、自転車やスキーの国際試合に出場する外国選手がよく宿泊し、彼らと交流していたことも大きかった。もちろん、一流シェフたちの多くが海外での修業経験があることも知っていた。

行き先は、当初フランスが有力だった。それを、うちに宿泊中の外国選手に話したところ、「フランスなんてとんでもないよ。絶対にイタリアがいいって。何を食べてもおいしいし、物価も安いし」と懸命に口説いてくる。彼は、もちろんイタリア人だ。「全部、僕が手配してあげるから」という言葉を信じて、行き先をイタリアに変えたのに、やっぱり、イタリア人の本気は口説く時だけだ(笑)。留学先探しは、一から自分でやった。

決めたのは、エミリア=ロマーニャ州(*注10)リミニにある語学学校。パンフレットでは、国際色豊かな四十人くらいの生徒が、教室で和気あいあいと授業を受けていた。夜にはパーティもあるらしい。

しかし、現地へ行くと、生徒はたったの四人しかいなかった。しかも僕以外は全員が上級者で、授業では、すでに仮定法や未来形をやっている。パーティどころか、授業すらまったく楽しくない。先生が、僕のため特別に補習授業をしてくれたけど、どう頑張ってもクラスメートに追いつくのはムリ。悶々とする日々のなか、食べ歩き熱が再燃し、バッグひとつでリミニを飛び出した。

当時は、スマホもなく、宿やレストランの予約は、公衆電話から。予約の時に必要な言葉を自分でメモに書いて、懸命に電話をかけた。最初に訪れたのは、ヴェネツィアの「ハリーズ・バー(*注11)」。作家のヘミングウェイをはじめ、セレブたちのお気に入りとして知られるレストランだ。

訪れると、そこはまさに大人たちの社交場だった。テーブルには、磨き込まれた銀食器が置かれ、サービス担当の黒服たちの立ち居ふるまいは、とてもエレガント。

うっとりしていると、注文したラビオリが運ばれてきた。黒服の給仕がパルミジャーノを削りながら振りかけてくれるのをじっと見ていたら、あっという間にラビオリが見えなくなり、目の前にチーズの山ができていた。「ん?」と思って、給仕の顔を見上げたら、イタリア語で「ストップ?」って。彼は、最初に「ストップと言ってね」と告げていたのに、僕はイタリア語が聞き取れなかったのだ。パルミジャーノの山をかきわけて食べたラビオリは、じつにおいしかった。

テノール歌手のパヴァロッティがお気に入りの「ゼッフィリーノ(*注12)」を目指して、ジェノヴァまで行ったこともある。名物のジェノヴェーゼパスタを堪能し、大満足で店を出たところで異変が起きた。出口のところでスタッフ全員が整列している。どうやら僕を見送ってくれるらしい。一人ひとりと握手して別れの挨拶を交わす十代の僕。「一体オレは、どこのセレブだよ?」と思いながら……。

旅先では、たくさんの出会いもあった。あの頃は、たどたどしいイタリア語で、笑っちゃうほどバカていねいな自己紹介をしていた。親切なイタリア人に自宅に招かれることもたびたび。ヴェネツィアでは、おじさんと一緒にイカ釣りをして、たくさん釣れたからと、自宅で奥さんにスミイカのパスタを作ってもらったこともある。

留学期間は、三ヵ月。食べ歩き遠征の合間に、学校に通うような暮らしは、そろそろ終わりに近づいていた。

「帰国したら、またアルバイトでもしてお金を貯めて、次はフランスかな」

そんなふうに考えていた時、思い出したのは、語学学校の先生の言葉。

「料理がそんなに好きなら、料理人になりなさい」。

それも悪くない。僕の料理人としての人生が始まった。


プロフィール: 太田哲雄(おおた・てつお)

1980年長野県生まれ。19歳で渡伊。帰国後、料理人を志して都内のイタリアンレストランで修業。2004年に再び渡伊。星付きレストラン数店を経て、スペインやペルー、そしてアマゾンの奥地まで、料理人として世界を渡り歩く。

注❶ 一九六七年生まれ。ペルーのカリスマシェフで、ペルーの料理を世界に向けて発信。地元食材に関心を持ち、生産者を尊重する姿勢が共感を呼ぶ。貧しい子どもたちも料理を学べる料理学校を設立するなど、ペルーの人たちに大きな希望を与えている。

注❷ 年に一回イギリスのグルメ誌「レストラン・マガジン」が発表する世界のレストランランキング。ランキングは、世界の食のプロたちの投票で決まる。二○一五年度の日本勢トップは、八位の「ナリサワ」。

注❸ 天才シェフ、フェラン・アドリアが率いた、スペインのカタルーニャ地方のレストラン。科学的な知識を駆使した創造的な料理は、料理界に一大旋風を巻き起こした。二〇一一年七月閉店。

注❹ ペルーの地方都市カニェテにあるレストランで、ペルーの伝統的な料理を提供。ナスカの地上絵から近く、日本人観光客も多く訪れる。一九七一年創業。

注❺ 青山で二十六年続いたフレンチレストラン。シェフのジョエル・ブリュアンは、三ツ星シェフ、ポール・ボキューズの弟子で、日本に正統派フランス料理を伝えた。二〇〇七年閉店。
注❻ 三田にあるフレンチレストラン。パリの名店「ランブロワジー」で修業した斉須政雄が、一九八六年にオープン。スペシャリテは「赤ピーマンのムース」。
注❼ 一九八三年西麻布にオープンしたイタリアンレストラン。シェフは、片岡護。
注❽ かつて広尾にあったイタリアンレストラン。「アルポルト」の片岡護や、銀座「リストランテ エッフェ」の小林幸司がシェフを務めていた。
注❾ 一九九五年青山にオープンしたイタリアンレストラン。当時のシェフは、山田宏巳。

注❿ イタリア北部にあり、パルマの生ハムや、チーズのパルミジャーノ・レッジャーノ、手打ちパスタなどが有名で、美食の州として知られる。リミニは、アドリア海沿いにある小さな街。
注⓫ 一九三一年にヴェネツィアで創業したレストラン。一階はバーで二階がレストランになっている。牛肉を使った「カルパッチョ」や、桃のカクテル「ベリーニ」はこの店で生まれた。
注⓬ 一九三九年にジェノヴァで創業したレストラン。パヴァロッティのほか、フランク・シナトラも通ったと言われる。バジルと松の実を使ったジェノヴェーゼ・ソースが有名。

IN☆POCKET

スクリーンショット 2016-04-18 18.37.33講談社の月刊文庫情報誌。毎月1回15日発行。

特集企画や読み切り小説、ここでしか読めない連載も充実!人気作品の創作の秘密、作家の素顔に迫る、文庫サイズの雑誌です。スマホをジーンズのポケットに入れるように「IN☆POCKET」をもって出かけよう。

IN☆POCKETのWebサイトを見る